【 全てが終わり、始まる日 】 初出-2011.02.14
家族の中での疎外感を自覚してしまった少年の話。
ハサミを手に取り、届けられた手紙をゆっくりと開いていった。
次の瞬間、大好きな香りが部屋の中へと漂い始めた。
思わず顔がフニャっと崩れてしまい、慌てて両頬をペタペタと叩く。
自分の部屋なのだから誰にも見られていないというのに。
「いけない、いけない」
恥ずかしさを誤魔化すように呟いた。
▲
「俺がやるっ。俺が、俺がやるからっ!」
「今度は僕の番。セドはすっこんでろよ」
メイドに促されて食堂に入ると、双子の弟達と妹の笑い声が聞こえた。
どうやら、またしても不毛な日課が行われているようだ。
「セド兄って本当に馬鹿よね。世の中にはルールってものがあるのよ」
自分の席を目指しながら横目で見やると、納得出来ないと騒ぐセドの腕を引っ張る妹の姿を捉えた。
口調は皮肉っぽいが、妹のアルは兄のセドが大好きなのだ。
今回も、セドが長兄に懐いているのが悔しくて堪らないのだろう。
「遅いぞ、テオ」
兄のトレヴァンが僕を見て手を上げた。その背後には、ニコニコと嬉しそうな表情で長兄の髪をブラシで梳くイリーの姿が。
当然だが、脇に立っているセドは悔しそうである。その隣のアルも膨れていた。
「すみません、遅れました」
イリーに負けたことで泣きそうなセドニールの頭に手を乗せ、ポンポンと叩いてから自席へと座った。
一瞬だけピクっと震えたアルディアが僕を睨んでいることに気付き、笑いそうになる。
(ちょっと狭量じゃないかなぁ)
いずれ良家に嫁ぐのだからと、家族中から甘やかされているアルディア。その視線は常にセドに向けられている。
だが肝心のセドは、アルの気持ちに微塵も気付いていないのだ。
長兄の微笑みを自分だけのモノにするのに必死すぎて。
ちょっと不憫だけど、もうそろそろ兄離れしても良いんじゃないかと思う。二人とも。
もう一人の双子、イリーエルに関しては。
うん、もう好きにしてくれとしか。
(だって、あの二人、とっくに出来上がってるしね)
家族に隠すことなく堂々と長兄トレヴァンは告白したのだ。
「イリーを恋人にした」
跡継ぎを産ませる為に女性と結婚するつもりもないと宣言し、祖父母と両親を憤死させる寸前まで追い込んでくれた。
祖父らの説得と懇願を聞き流し、泰然と日常を送った長兄。
自らの決意の強さを示し続けた2ヶ月間は思い出したくない。
セドは毎日泣き喚き、アルは不気味に沈黙し、僕は誰の味方も出来ずに無言でいるしか出来なかった。
イリーは申し訳なさに身を縮めて長兄の傍を離れないものだから、余計にセドの泣き声が大きくなる。
「認めてもらえないのなら、私はイリーと家を出ます。二度と戻りません」
この言葉が大きかったのだろう。最後には祖父母らが降参し、跡継ぎ問題を家族会議で考えることになった。
二人の仲が家族公認となった事実を受け止められず、セドは数日部屋に籠って泣き続けた。
可哀相だったが、誰にもどうしてやることも出来ない。
ある日、このままでは家族との溝が大きくなると思ったのだろう、長兄がセドの部屋を訪ね、長い時間を過ごした。
どんな話をしたのかは知らない。
それでも、セドが普通にイリーに話し掛けた時には、皆が胸をホっと撫で下ろしたものだ。
▲
テーブルに置いた新聞をメイドが下げると、昼食の支度が進んでいく。
全員の食事が用意された頃、イリーが満足の溜息を吐き、自席へと座った。
髪を梳かれる間、長兄は目を閉じていたから、僕は景色を眺め、セドは長兄を、アルはセドを見ていた。いつもと同じように。
物心ついた時から双子は長兄に懐き、妹はセドから離れなかった。
トレヴァンがイリーを、というか兄弟の誰かを選ぶとは思わなかったけれど、それも今はどうでもいいことだ。
「お父さんとお祖父様は、間もなく社から戻られるそうだ。お母さんとお祖母様は夕方になるらしい」
長兄の言葉に頷いてからアルを見た。思ったとおり、頬を膨らませている。
「アルディア、顔が醜いぞ。二人に付いて行かなかったのは自分なんだから怒るなよ」
可愛い顔が台無しだと、大好きなセドに言われてアルが頬を染めて頷いた。
「何で一緒に行かなかったのさ」
不思議そうにイリーに問われて、だって、と口篭るアルが可愛い。
僕は、何故アルが一緒に行かなかったのかを知っていた。
母と祖母は、バレンタインのチョコを買いに行こうと娘だけを誘ったのだ。
だけどアルは行かないと首を振り、自分の分も頼んでいた。
きっと少しでもセドの傍を離れるのが嫌だったのだろう。
チョコだけを買ってすぐに戻ってくると信じていたのに、美味しい食事やショッピングを楽しんでいるのが分かって少し悔しいのかな。
滅多に外に出掛けることのない僕らは、買い物や外食が大好きだった。
食事が終わると、長兄が大学での出来事を面白おかしく話してくれた。
嬉しそうに彼を見つめる双子と、その片割れにだけ視線を向ける妹。
いつもと何の変わりもない昼下がりだった。
例え、バンっと音を立て、お父さんとお祖父様が急ぎ足で部屋に入って来ても。
「アルディア~~、逢いたかったよ。さ、ここへおいで」
「ちょっと、お父さんっ。まずは父親の私からでしょう。さぁ、アル、こっちこっち」
地位も金もある二人の男が、相好を崩して女の子の視線を自分へと向けようと必死に牽制し合う。
これも日常であり、誰も何も言葉を発することはない。
長兄は溜息を吐き、双子は呆れて無言。妹に至っては、仕方なげに両方に手を伸ばしていた。勿論、抱き付く時は笑顔で。
(平和だな~)
心地良い日差しを受けながら、少し眠ろうと僕はテーブルへと身体を伏せていった。
▲
夕食後の一家団欒。キャキャっと嬉しげに笑う妹が主役となり、皆で穏やかな時間を過ごした。
母親に買ってきてもらったチョコを全員に配り、セドにお礼を言われてポっと照れるのが愛らしい。
その影で、イリーは手作りのチョコを長兄にそっと渡していた。
(どうやってセドに内緒で作ったんだろう)
祖母と母は、それぞれの夫に特別なチョコを渡した後、ホワイトデーに欲しい物のリストを作っているの、と楽しそうに話している。
苦笑する夫らは、それでも嬉しそうだ。
祖父母が腰を上げたのを合図に、各自がバラバラで部屋へと戻り始めた。
僕も、母達から貰ったチョコを手にして椅子から立ち上がると廊下へ出た。
固まった首を横に振りながら解しつつ歩いていると、メイドの一人が何かを持って前方から近付いて来る。
それを視線に捉えた瞬間、ドキっと胸が騒いだ。
(まさか・・・)
嫌な予感に脚が細かく震えてしまう。
「セレステオ様、こちらを」
目前に立ったメイドは白い物を僕へ渡すと、さっさと廊下を引き返して行く。
手に乗った感触で例のモノだと分かっていたけれど、恐る恐る掌を見下ろした。
チョコを持つ手とは別の手に強引に乗せられたのは、真っ白な封筒だ。
メイドの逃げるような仕草と態度が悲しい。
彼女に罪はないけれど、僕を地獄へと導くのは常にこの屋敷のメイドたちだった。
祖父の友人の孫娘の婿。その男がこの手紙の差出人であり、僕の主だ。
イリーが長兄の伴侶と認められた時から、名ばかりの嫁となる女性の人選が始まった。
愛人ならまだしも、本当の伴侶、それも少年が傍にいると知って嫁いで来る女性は少ないだろう。
以前から結婚の申し込みの多かった兄であっても、条件に合う女性を見つけるのは難しかったらしい。
結局、大勢の女性の中から最終的な候補に残ったのが、祖父の友人の孫娘だったのだ。
彼女はすでに婿を迎えていたのだが、どうやら完全なる政略結婚だったらしく、両家それぞれを継ぐ子供が誕生しており、時期を見て離婚するという。
長兄とその女性にとって、今回の縁談は実に都合の良いものだった。
イリーと暮らしたい長兄と、両親を早くに亡くし、たった一人の祖父と1歳の息子(次男)の三人で過ごしたい女性。
彼女の夫の方は、長男を連れて自分の屋敷に戻り気楽な独身生活を送る予定だという。
3歳の長男は執事夫婦に全てを任せるようだ。
ピッタリの相手が見つかった長兄達にとって唯一の問題は、その夫の動向。
離婚した後になって、他人の嫁となった元妻に未練などを起こされては堪らないからだ。
仮面夫婦がバレて脅迫されてしまう可能性がある。
熟慮の末、決定したのは──。
他人には絶対に口外出来ない愛人を与え、互いに弱みを握り合うというものだった。
そう、僕という愛人を生贄にすることで。
「男も女も大丈夫なのは結婚前に聞いていますから、絶対に気に入りますわ。こんな可愛い子なら」
にこやかに笑ったのは、長兄に嫁ぐ予定の女性。
「ふむ。なら脅す必要も、面倒なセッティングもする必要はないかな」
少しだけホっとした顔で呟くのは、僕の祖父だ。
長兄は、父と一緒に祖父の座る椅子の背後に立っていた。
こんな馬鹿な話は今すぐにでも止めたかった。でも、何も出来ない。
逃げることも怒鳴ることも。
僕の身体は、痺れ薬で動けなかったからだ。
多分、さっきメイドに注いでもらった紅茶にでも仕込まれていたのだろう。
当事者でなければ、目前で繰り広げられているのは穏やかな家族会議だと僕も錯覚するほどの、のんびりとしたムードだった。
間違っても、長男の為に次男を人身御供にする、男の愛人に送り込む算段をしているとは思わないはずだ。
こんなこと有り得ない。絶対に有り得ない、それなのに・・・。
「では、これで決まりだな」
その一言で、僕は地獄へ突き落とされることが決定してしまった。
残された最後の希望は相手の男性に拒絶されること。
蜘蛛の糸のように細い、それだけだった。
▲
初めて『彼』の屋敷へと強引に連れて行かれた日。
目が合うまで確かに不機嫌だったのに。
何故か僕を見た瞬間、『彼』はニヤっと笑った。楽しそうに。嬉しそうに。
肉食獣が餌を見つけたように瞳を輝かせて。
為す術もなく『彼』の手に堕とされ、痛みと快感を刻み込まれた。何時間も。
あれから、一体何度、身体を繋いだのだろうか。
メイドから手渡される白い手紙によって呼び出され、『彼』の屋敷で陵辱されては実家に戻されていた。
すでに『彼』は妻との離婚が成立し、望み通り悠々自適に暮らしているようだった。
半年もすれば、長兄は件の女性と結婚するはずだ。
そうなれば、僕は家族から引き離され、愛人として『彼』の屋敷に送られてしまう。
これまでのように、身体を休める暇も与えられないかも知れない。
祖父母も両親も、僕が別の家に婿に行くかのように何の動揺も見せていない。
彼らの態度は悲しかったけれど仕方がないとも思うのだ。
最初から、長男が何よりも優先。次男は大人しく兄に従うようにと育てられてきた。
全てを受け継ぐのは長男だからと学校にも行かなかった。
友人を持つことすら禁じられた。だから諦めはとっくについていたのだ。
だけど心残りはあった。
双子の弟達や妹との賑やかな輪の中に入ることも、長兄の穏やかな眼差しに見つめられることも、屋敷を出たら最後、二度と僕の身には訪れない。
それだけが悲しい。
何がいけなかったんだろう。
何を間違ったんだろう。
どうやったら『彼』から逃げることが出来る?
どうやったら家族のままでいることが出来る?
考えても無駄かな。
もっともっと考えたら、どうにかなるのかな。
うん、多分、・・・もう誰にも何も出来ない。してくれない。
気が付いたら、廊下に一人でへたり込んでいた。
チョコの箱がバラバラになって落ちているのが視界の隅に入る。
綺麗な色の包み紙。綺麗なリボン。
優しい気持ちでくれた贈物。そう、優しい気持ちで。──本当に?
何故だか急にチョコの箱が不気味なモノに思えて、思い切り手で横へと振り払った。廊下の端へと飛ばすように。
細かく震える指で廊下の絨緞の毛を握り締める。
ポタポタと何かが落ちる音が聞こえた気がした。
ぼやけた視界で周囲を見渡すと、少し手を伸ばしたら届く場所に手紙が見えた。
無意識にソレを引き寄せ、手にギュっと握り締める。
そんなものが助けてくれるはずもないのに、まるで幼子が母親に縋るように胸に抱き締めた。
今の自分が唯一、縋れるモノだと、そう思って。
ユラユラしながら立ち上がり、廊下を自室へと進んだ。安心出来る居場所を目指して。
貰ったチョコを置き去りにしたことに後で気付いたけれど、もう胸は痛まなかった。
▲
部屋に戻ると、夜寒用のコートを羽織って用意していたバッグを机の下から取り出した。
急いで出掛けなければ『彼』の機嫌が悪くなってしまう。
それでも、いつもは見ることもない手紙を開いて確認したかった。
「今すぐ、来い」
たった一つの命令。それが書かれていることを。
ベッドの上に置いていた手紙を取り、椅子を引いて座る。
ハサミを使って『彼』からの手紙をゆっくりと開いていった。
次の瞬間、大好きな香りが部屋の中へと漂い始めるのに気付いた。
身体を繋いで何度目だったか。初めて、野獣ではない穏やかな『彼』見ることが出来た。
僕の髪を大きな手で梳きながら、『彼』は満ち足りた表情でピロートークを始めた。
もう一度挑まれるのが嫌で、『彼』からの質問に必死に答える。
好きな食べ物。苦手な食べ物。どんな洋服が好きか。どんな花が好きか。甘い香水を付けたことはあるか。
女性に訊く内容では? そう思う質問が続いた。
欲しい時計のメーカー、靴のブランド。次から次に飛んで来る質問。
まるで僕に興味を持っているように思えて嬉しかった。
今、僕の手にあるのは、好きな香りの付いた手紙だ。
あの時、彼に教えたメーカーの。
こんな心が弱っている時に、これは酷いと思う。
どんなに強い人間でもフラっとなってしまうではないか。
チョコの甘さとは違う。でも、今の僕にはチョコと同等、いや、それ以上の甘さで・・・。
思わず顔がフニャっと崩れてしまった。嬉しくて。
家族から追放されるに等しい僕の好みを覚えていてくれた人がいる。その事実に。
たとえ、その人が僕を愛人として見ているとしても、それでも嬉しいのだ。
両頬をペタペタと叩いた。しっかりしろと自分に言い聞かせるように。
「いけない、いけない」
これからも辛いことが起こるに違いないのに。
僕に幸せなど訪れる筈もないのに。
何でこんなに頬が熱くて堪らないんだろう。
「でも、これくらいの幸せなら、いいよね。今日はバレンタイン、なんだから」
恥ずかしさを誤魔化すように小さく呟いた。
2月14日。愛の告白をする日に。
僕は荷物一つを持ち、家族を自ら捨てて、唯一望んでくれる人の元へと走った。
偽りの永遠を願って。
家族の中での疎外感を自覚してしまった少年の話。
ハサミを手に取り、届けられた手紙をゆっくりと開いていった。
次の瞬間、大好きな香りが部屋の中へと漂い始めた。
思わず顔がフニャっと崩れてしまい、慌てて両頬をペタペタと叩く。
自分の部屋なのだから誰にも見られていないというのに。
「いけない、いけない」
恥ずかしさを誤魔化すように呟いた。
▲
「俺がやるっ。俺が、俺がやるからっ!」
「今度は僕の番。セドはすっこんでろよ」
メイドに促されて食堂に入ると、双子の弟達と妹の笑い声が聞こえた。
どうやら、またしても不毛な日課が行われているようだ。
「セド兄って本当に馬鹿よね。世の中にはルールってものがあるのよ」
自分の席を目指しながら横目で見やると、納得出来ないと騒ぐセドの腕を引っ張る妹の姿を捉えた。
口調は皮肉っぽいが、妹のアルは兄のセドが大好きなのだ。
今回も、セドが長兄に懐いているのが悔しくて堪らないのだろう。
「遅いぞ、テオ」
兄のトレヴァンが僕を見て手を上げた。その背後には、ニコニコと嬉しそうな表情で長兄の髪をブラシで梳くイリーの姿が。
当然だが、脇に立っているセドは悔しそうである。その隣のアルも膨れていた。
「すみません、遅れました」
イリーに負けたことで泣きそうなセドニールの頭に手を乗せ、ポンポンと叩いてから自席へと座った。
一瞬だけピクっと震えたアルディアが僕を睨んでいることに気付き、笑いそうになる。
(ちょっと狭量じゃないかなぁ)
いずれ良家に嫁ぐのだからと、家族中から甘やかされているアルディア。その視線は常にセドに向けられている。
だが肝心のセドは、アルの気持ちに微塵も気付いていないのだ。
長兄の微笑みを自分だけのモノにするのに必死すぎて。
ちょっと不憫だけど、もうそろそろ兄離れしても良いんじゃないかと思う。二人とも。
もう一人の双子、イリーエルに関しては。
うん、もう好きにしてくれとしか。
(だって、あの二人、とっくに出来上がってるしね)
家族に隠すことなく堂々と長兄トレヴァンは告白したのだ。
「イリーを恋人にした」
跡継ぎを産ませる為に女性と結婚するつもりもないと宣言し、祖父母と両親を憤死させる寸前まで追い込んでくれた。
祖父らの説得と懇願を聞き流し、泰然と日常を送った長兄。
自らの決意の強さを示し続けた2ヶ月間は思い出したくない。
セドは毎日泣き喚き、アルは不気味に沈黙し、僕は誰の味方も出来ずに無言でいるしか出来なかった。
イリーは申し訳なさに身を縮めて長兄の傍を離れないものだから、余計にセドの泣き声が大きくなる。
「認めてもらえないのなら、私はイリーと家を出ます。二度と戻りません」
この言葉が大きかったのだろう。最後には祖父母らが降参し、跡継ぎ問題を家族会議で考えることになった。
二人の仲が家族公認となった事実を受け止められず、セドは数日部屋に籠って泣き続けた。
可哀相だったが、誰にもどうしてやることも出来ない。
ある日、このままでは家族との溝が大きくなると思ったのだろう、長兄がセドの部屋を訪ね、長い時間を過ごした。
どんな話をしたのかは知らない。
それでも、セドが普通にイリーに話し掛けた時には、皆が胸をホっと撫で下ろしたものだ。
▲
テーブルに置いた新聞をメイドが下げると、昼食の支度が進んでいく。
全員の食事が用意された頃、イリーが満足の溜息を吐き、自席へと座った。
髪を梳かれる間、長兄は目を閉じていたから、僕は景色を眺め、セドは長兄を、アルはセドを見ていた。いつもと同じように。
物心ついた時から双子は長兄に懐き、妹はセドから離れなかった。
トレヴァンがイリーを、というか兄弟の誰かを選ぶとは思わなかったけれど、それも今はどうでもいいことだ。
「お父さんとお祖父様は、間もなく社から戻られるそうだ。お母さんとお祖母様は夕方になるらしい」
長兄の言葉に頷いてからアルを見た。思ったとおり、頬を膨らませている。
「アルディア、顔が醜いぞ。二人に付いて行かなかったのは自分なんだから怒るなよ」
可愛い顔が台無しだと、大好きなセドに言われてアルが頬を染めて頷いた。
「何で一緒に行かなかったのさ」
不思議そうにイリーに問われて、だって、と口篭るアルが可愛い。
僕は、何故アルが一緒に行かなかったのかを知っていた。
母と祖母は、バレンタインのチョコを買いに行こうと娘だけを誘ったのだ。
だけどアルは行かないと首を振り、自分の分も頼んでいた。
きっと少しでもセドの傍を離れるのが嫌だったのだろう。
チョコだけを買ってすぐに戻ってくると信じていたのに、美味しい食事やショッピングを楽しんでいるのが分かって少し悔しいのかな。
滅多に外に出掛けることのない僕らは、買い物や外食が大好きだった。
食事が終わると、長兄が大学での出来事を面白おかしく話してくれた。
嬉しそうに彼を見つめる双子と、その片割れにだけ視線を向ける妹。
いつもと何の変わりもない昼下がりだった。
例え、バンっと音を立て、お父さんとお祖父様が急ぎ足で部屋に入って来ても。
「アルディア~~、逢いたかったよ。さ、ここへおいで」
「ちょっと、お父さんっ。まずは父親の私からでしょう。さぁ、アル、こっちこっち」
地位も金もある二人の男が、相好を崩して女の子の視線を自分へと向けようと必死に牽制し合う。
これも日常であり、誰も何も言葉を発することはない。
長兄は溜息を吐き、双子は呆れて無言。妹に至っては、仕方なげに両方に手を伸ばしていた。勿論、抱き付く時は笑顔で。
(平和だな~)
心地良い日差しを受けながら、少し眠ろうと僕はテーブルへと身体を伏せていった。
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夕食後の一家団欒。キャキャっと嬉しげに笑う妹が主役となり、皆で穏やかな時間を過ごした。
母親に買ってきてもらったチョコを全員に配り、セドにお礼を言われてポっと照れるのが愛らしい。
その影で、イリーは手作りのチョコを長兄にそっと渡していた。
(どうやってセドに内緒で作ったんだろう)
祖母と母は、それぞれの夫に特別なチョコを渡した後、ホワイトデーに欲しい物のリストを作っているの、と楽しそうに話している。
苦笑する夫らは、それでも嬉しそうだ。
祖父母が腰を上げたのを合図に、各自がバラバラで部屋へと戻り始めた。
僕も、母達から貰ったチョコを手にして椅子から立ち上がると廊下へ出た。
固まった首を横に振りながら解しつつ歩いていると、メイドの一人が何かを持って前方から近付いて来る。
それを視線に捉えた瞬間、ドキっと胸が騒いだ。
(まさか・・・)
嫌な予感に脚が細かく震えてしまう。
「セレステオ様、こちらを」
目前に立ったメイドは白い物を僕へ渡すと、さっさと廊下を引き返して行く。
手に乗った感触で例のモノだと分かっていたけれど、恐る恐る掌を見下ろした。
チョコを持つ手とは別の手に強引に乗せられたのは、真っ白な封筒だ。
メイドの逃げるような仕草と態度が悲しい。
彼女に罪はないけれど、僕を地獄へと導くのは常にこの屋敷のメイドたちだった。
祖父の友人の孫娘の婿。その男がこの手紙の差出人であり、僕の主だ。
イリーが長兄の伴侶と認められた時から、名ばかりの嫁となる女性の人選が始まった。
愛人ならまだしも、本当の伴侶、それも少年が傍にいると知って嫁いで来る女性は少ないだろう。
以前から結婚の申し込みの多かった兄であっても、条件に合う女性を見つけるのは難しかったらしい。
結局、大勢の女性の中から最終的な候補に残ったのが、祖父の友人の孫娘だったのだ。
彼女はすでに婿を迎えていたのだが、どうやら完全なる政略結婚だったらしく、両家それぞれを継ぐ子供が誕生しており、時期を見て離婚するという。
長兄とその女性にとって、今回の縁談は実に都合の良いものだった。
イリーと暮らしたい長兄と、両親を早くに亡くし、たった一人の祖父と1歳の息子(次男)の三人で過ごしたい女性。
彼女の夫の方は、長男を連れて自分の屋敷に戻り気楽な独身生活を送る予定だという。
3歳の長男は執事夫婦に全てを任せるようだ。
ピッタリの相手が見つかった長兄達にとって唯一の問題は、その夫の動向。
離婚した後になって、他人の嫁となった元妻に未練などを起こされては堪らないからだ。
仮面夫婦がバレて脅迫されてしまう可能性がある。
熟慮の末、決定したのは──。
他人には絶対に口外出来ない愛人を与え、互いに弱みを握り合うというものだった。
そう、僕という愛人を生贄にすることで。
「男も女も大丈夫なのは結婚前に聞いていますから、絶対に気に入りますわ。こんな可愛い子なら」
にこやかに笑ったのは、長兄に嫁ぐ予定の女性。
「ふむ。なら脅す必要も、面倒なセッティングもする必要はないかな」
少しだけホっとした顔で呟くのは、僕の祖父だ。
長兄は、父と一緒に祖父の座る椅子の背後に立っていた。
こんな馬鹿な話は今すぐにでも止めたかった。でも、何も出来ない。
逃げることも怒鳴ることも。
僕の身体は、痺れ薬で動けなかったからだ。
多分、さっきメイドに注いでもらった紅茶にでも仕込まれていたのだろう。
当事者でなければ、目前で繰り広げられているのは穏やかな家族会議だと僕も錯覚するほどの、のんびりとしたムードだった。
間違っても、長男の為に次男を人身御供にする、男の愛人に送り込む算段をしているとは思わないはずだ。
こんなこと有り得ない。絶対に有り得ない、それなのに・・・。
「では、これで決まりだな」
その一言で、僕は地獄へ突き落とされることが決定してしまった。
残された最後の希望は相手の男性に拒絶されること。
蜘蛛の糸のように細い、それだけだった。
▲
初めて『彼』の屋敷へと強引に連れて行かれた日。
目が合うまで確かに不機嫌だったのに。
何故か僕を見た瞬間、『彼』はニヤっと笑った。楽しそうに。嬉しそうに。
肉食獣が餌を見つけたように瞳を輝かせて。
為す術もなく『彼』の手に堕とされ、痛みと快感を刻み込まれた。何時間も。
あれから、一体何度、身体を繋いだのだろうか。
メイドから手渡される白い手紙によって呼び出され、『彼』の屋敷で陵辱されては実家に戻されていた。
すでに『彼』は妻との離婚が成立し、望み通り悠々自適に暮らしているようだった。
半年もすれば、長兄は件の女性と結婚するはずだ。
そうなれば、僕は家族から引き離され、愛人として『彼』の屋敷に送られてしまう。
これまでのように、身体を休める暇も与えられないかも知れない。
祖父母も両親も、僕が別の家に婿に行くかのように何の動揺も見せていない。
彼らの態度は悲しかったけれど仕方がないとも思うのだ。
最初から、長男が何よりも優先。次男は大人しく兄に従うようにと育てられてきた。
全てを受け継ぐのは長男だからと学校にも行かなかった。
友人を持つことすら禁じられた。だから諦めはとっくについていたのだ。
だけど心残りはあった。
双子の弟達や妹との賑やかな輪の中に入ることも、長兄の穏やかな眼差しに見つめられることも、屋敷を出たら最後、二度と僕の身には訪れない。
それだけが悲しい。
何がいけなかったんだろう。
何を間違ったんだろう。
どうやったら『彼』から逃げることが出来る?
どうやったら家族のままでいることが出来る?
考えても無駄かな。
もっともっと考えたら、どうにかなるのかな。
うん、多分、・・・もう誰にも何も出来ない。してくれない。
気が付いたら、廊下に一人でへたり込んでいた。
チョコの箱がバラバラになって落ちているのが視界の隅に入る。
綺麗な色の包み紙。綺麗なリボン。
優しい気持ちでくれた贈物。そう、優しい気持ちで。──本当に?
何故だか急にチョコの箱が不気味なモノに思えて、思い切り手で横へと振り払った。廊下の端へと飛ばすように。
細かく震える指で廊下の絨緞の毛を握り締める。
ポタポタと何かが落ちる音が聞こえた気がした。
ぼやけた視界で周囲を見渡すと、少し手を伸ばしたら届く場所に手紙が見えた。
無意識にソレを引き寄せ、手にギュっと握り締める。
そんなものが助けてくれるはずもないのに、まるで幼子が母親に縋るように胸に抱き締めた。
今の自分が唯一、縋れるモノだと、そう思って。
ユラユラしながら立ち上がり、廊下を自室へと進んだ。安心出来る居場所を目指して。
貰ったチョコを置き去りにしたことに後で気付いたけれど、もう胸は痛まなかった。
▲
部屋に戻ると、夜寒用のコートを羽織って用意していたバッグを机の下から取り出した。
急いで出掛けなければ『彼』の機嫌が悪くなってしまう。
それでも、いつもは見ることもない手紙を開いて確認したかった。
「今すぐ、来い」
たった一つの命令。それが書かれていることを。
ベッドの上に置いていた手紙を取り、椅子を引いて座る。
ハサミを使って『彼』からの手紙をゆっくりと開いていった。
次の瞬間、大好きな香りが部屋の中へと漂い始めるのに気付いた。
身体を繋いで何度目だったか。初めて、野獣ではない穏やかな『彼』見ることが出来た。
僕の髪を大きな手で梳きながら、『彼』は満ち足りた表情でピロートークを始めた。
もう一度挑まれるのが嫌で、『彼』からの質問に必死に答える。
好きな食べ物。苦手な食べ物。どんな洋服が好きか。どんな花が好きか。甘い香水を付けたことはあるか。
女性に訊く内容では? そう思う質問が続いた。
欲しい時計のメーカー、靴のブランド。次から次に飛んで来る質問。
まるで僕に興味を持っているように思えて嬉しかった。
今、僕の手にあるのは、好きな香りの付いた手紙だ。
あの時、彼に教えたメーカーの。
こんな心が弱っている時に、これは酷いと思う。
どんなに強い人間でもフラっとなってしまうではないか。
チョコの甘さとは違う。でも、今の僕にはチョコと同等、いや、それ以上の甘さで・・・。
思わず顔がフニャっと崩れてしまった。嬉しくて。
家族から追放されるに等しい僕の好みを覚えていてくれた人がいる。その事実に。
たとえ、その人が僕を愛人として見ているとしても、それでも嬉しいのだ。
両頬をペタペタと叩いた。しっかりしろと自分に言い聞かせるように。
「いけない、いけない」
これからも辛いことが起こるに違いないのに。
僕に幸せなど訪れる筈もないのに。
何でこんなに頬が熱くて堪らないんだろう。
「でも、これくらいの幸せなら、いいよね。今日はバレンタイン、なんだから」
恥ずかしさを誤魔化すように小さく呟いた。
2月14日。愛の告白をする日に。
僕は荷物一つを持ち、家族を自ら捨てて、唯一望んでくれる人の元へと走った。
偽りの永遠を願って。
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