【 その瞳だけが僕の光明 】 初出-2009年
     

生温い風が吹く街を僕は歩いていた。
右側の門扉から顔を覗かせる一匹の飼い犬。
のんびりと欠伸する姿を横目に、僕は必死に足を動かし続ける。
これは、散歩。散歩なんだと、自分を欺きながら。
家を出てから30分、額には次から次へと汗が浮き上がってくる。
長袖で軽く抑えるようにそれを拭うと、目指す公園へと向かって歩き続けた。 
久しぶりの自由時間に、少しだけ心臓の鼓動が速い。
 いや、別の理由でだろうか。
アイツらは今頃・・・。

ほとんど誰もいない、今は寂れた公園。そこに、僕の大好きな花壇があった。
この季節、花の姿は多くなかったが、その代わりのように懸命に寒さに耐える草木を見ることが出来る。
こうして頑張ったものだけが、あの輝かしい、全てが新しく始まる季節に花を咲かせるのだ。
僕は、彼らの姿を記憶するように花壇から花壇へと歩き続けた。
やがて、眼前に大きな湖が見えてきた。
凍っているのか、風による湖面の動きがない。
何とも言えない、もやもやが湧き上がってくる。
それを必死に押し留め、僕は冷静になれ、と自分に何度も言い聞かせた。

もう始まっているのだ。誰にも、僕自身にさえ、止めることは出来ない。
何度も何度も考え、無理だと、中止してはどうかと考える自分が歯がゆかった。
あの大きな男に依頼したこと。
後悔、罪悪感、そして殺意。
この感情は、どうやっても消えはしない。
こんなドス黒い感情を持ち続けたまま、この先を、一生を、生きていく?
気が狂いそうだった。
大きな声で吼えたいほどに。

そうだ。僕は止めない。絶対に。
たとえ、心の奥底で、ほんの僅かな良心が悲鳴をあげていようとも。
もう、止められないのだ。あの男に頼んだからには。
愚かな僕の頼みを、あの男は面白そうに聞いていた。そして、あっさりと承諾してしまった。
何故、あの時、僕は悲しかったのだろう。
まさか、止めて欲しかった?
それが、僕の本当の・・・?

暗い穴底からドンドンと拳で固いコンクリートのような岩盤を叩き続ける。
そんな幻影が脳裏から離れてくれないのだ。どんなに頭を振ろうとも。
そんな日々が何日続いただろうか。
ある夜。いつものように目を閉じて、その幻影を一瞬だけ消してみようとした。
次に目を開けた時、僕の傍には、あの男がいた。
いつものように、何もない空間から現れたのだ。
その太い腕が、まるで寒さから守るように僕を抱き締めてくる。・・・遠い昔、とても優しかったあの人のように。

違うのは分かってる。性別も見た目も全く違うのだ。
それでも、僕は男の胸へと身を捩り、その大きな首へと腕を伸ばした。縋るように。
この男だけが、僕のただ一つの光だと自分に言い聞かせて。
そんな僕を、きっとこの男は嗤って見下ろしているに違いない。馬鹿な人間だと。
自分の全てを、人間以外に預けた愚かな奴だと思っているはずだ。
けれど・・・。 僕は、その人間というものが怖かったのだ。
同じ人間だというのに僕を性具扱いし、いずれは臓器を引きずりだして売買するのが明白な夫婦のことが。 
過去の、醜い嫉妬に駆られた僕のように、残酷で無邪気なアイツらが。

自分もアイツらと同じ、いやそれ以上の悪鬼だと僕だって分かってはいるのだ。
こんな酷い目に遭ってもなお、同じ目に遭っているか、死んでしまっただろう弟と妹を本心から可哀想だと思っていないのだから。
義父に至っては、存在さえどうでもよくて、唯一母のことだけが、時折フっと思い出されることがある。
あんなに優しかった母はもういない。捜すことさえ不可能な場所へと連行されてしまった。
どこで間違ったのだろうか。どこに分岐点があったのか。
でももう、どうでも良かった。もう僕に出来る償いは決まったのだから。



母は、僕を愛してくれた。亡き父の代わりに無償の愛情で。
優しくて、儚い、絵画の中で微笑んでいるような、そんな素晴らしい女性だった。
けれど、父の遺産は少なく、母と僕の生活は苦しくなった。
普通に暮らしていくだけならば、母子二人の生活だ。それほど金は必要なかったと思う。
でも、僕のIQが高いことが判明し、大喜びした母が僕の教育方針を見直してしまったのだ。

母は、給料が格段に違うのよ、と夜の職を見つけてきた。
化粧は濃くなり、性格も態度も大きく変貌していった。僕に対する、愛情以外は。
段々と変わりゆく母に、元に戻って、と言いたかった。でも、言えなかった。
「次のお客様はすご~いお金持ちの人なのよ。ちょっと困った趣味もあるけど、・・・でもお母さん頑張るわね」
だから、あなたも新しい先生と一緒に勉強頑張ってね、と言われたからだ。
お金が貯まると母は生活環境をグレードアップさせようと必死になっていく。これも全て僕の為なのだと。
半年毎に引っ越しが繰り返され、住居は広くて綺麗な建物に。小さな塾から専門の学校へ、とうとう個別指導まで頼むことに。
一緒にもっと遊びたかった。もっといっぱい喋りたかった。
それでも、そんな仕事を選んだのは間違いなく僕の為なのだと我慢するしかない。

友人らは家族旅行や外食を楽しみ、それを話してくれるけれど、疲れている母を寝かせてあげたくて休日はテレビと勉強しか出来ない。
眠っている母からは、タバコと強いお酒の臭いが漂い、洗顔後でも化粧品の名残のような黒ずみが見て取れた。
このままじゃ駄目だと、そう思った。母が別の何かになりそうな気がして。
「お母さん、いってらっしゃい。今日から僕、もっともっと頑張るね。あと少しレベルが上がったら寮のある学校に入れるから」
母の負担を減らしたかった。ただ、それだけなのに。
僕にあまり構わなかった負い目があった母は、僕から嫌われていると思ってしまったのだ。
悲しんでいる母の気持ちに気付かずに、僕はこれまで以上に頑張って寮のある学校に受かってしまった。
そしてその結果は最悪の事態を引き起こしていく。
僕と家族全員の未来を狂わせたのだ。

僕の家は二人家族だ。だけど、戸籍上は三人になっている。
忙しさと父のいない寂しさで、母が仕事とは関係ない男と一度だけ関係し、妊娠してしまった。
想定外の出来事に驚いた母は、胎児を堕ろそうと悪鬼のような形相で階段をワザと転げ落ちた。何度も何度も。
繰り返されるそれが怖くて、僕はもういいよ、と止めた。
母の身体と心が壊れると思ったからだ。
だから、そんな状況を作ってまで生まれてきた弟が憎かった。
大切な母を事故死させようとする弟が。
同時に、母の愛情がその弟に向くのが怖かったのだろう。未知の生活が始まることを恐怖したのだ。
醜い僕の心は、何もかも悪いのは弟だと考えたかったのに違いない。

母の計画からはみ出して生まれた弟を、母は僕が驚くほどに憎むようになっていった。
助けてくれる人もいない母にとって、赤子は仕事の邪魔をする存在でしかないのだろう。
代わりに食事や遊びの相手を僕が務めたけれど、三歳になる頃から母は弟を召使いのように扱うようになった。
ビクビクしながら実の母の顔色を窺う弟。
そんな弟に見せ付けるように、母は優しい声音で僕にプレゼントを与え、成績の順位を褒めまくった。
忙しい母が僕をまともに見て触ってくれるのが嬉しくて、僕は弟の気持ちなどまったく考えないで喜んでいたのだ。
時には、弟の方に顔を向けてワザとニヤリと笑ったことさえあった。
そう、僕は最低の人間だったのだ。子供だからと許される訳がない。
ましてや、まだ小さな母の愛情に飢えている子供が傍にいるのだ。
せめて母から見えない場所で、慰めて抱き締めて優しくしてあげれば良かったのに。

寮のある学校に進みたい、という僕の願いと、将来に役立つ知名度の学校に入らせたい母の思いが重なった結果。
選ばれた学校に掛かる費用は、稼いでいる母にとっても更なる大金が必要になってしまった。
金持ちで即金で払ってくれる男を狙った母の目が、一人の男をターゲットにした。
誑かす時間が面倒だと、結婚を条件として選ばれた男だった。
母の趣味を疑ってしまう坊主頭の大男は、その体型と違って実に優しい男だった。弟以外には・・・。
最初の驚きを別にして、僕ら母子の弟に対する扱いに慣れてしまえば、そうなってしまうのも当たり前なのだろう。
結婚してくれたオンナにもその連れ子にも嫌われたくはないし、児童相談所を呼ぶのも、自分が連れて逃げるのも面倒だったに違いない。
人間は慣れてしまう生き物なのだ。残念ながら。
他人ならいくらでも勝手なことを平気で言えるけれど、他人だからこそ実行するのにはリスクと勇気が必要になり、結果何もしない者しか残らない。
それでも、唯一何とか出来た、せめて内緒で優しくすることが出来た僕は義父と大して仲良くならないうちに寮へと入ってしまった。
その後、しばらくして妹が生まれたけれど、僕が実家に戻ったのは大学に入る前。
滅多に帰省しない僕が知らないうちに、義父と母が弟を誰かへ売り払ってしまっていた。
まだ中学に上がったばかりの幼さで。

本当ならば悲しんで、激怒して、義父と母に連れ戻すように叫ぶのがセオリーだろう。
だけど、僕は嬉しかったのだ。弟がいなくなって。本当に、本心から。
段々、昔の大人しくて清楚だった母の姿に似てきたからだ。
いつか母がそれに気付いて、弟を可愛がるようになるのが嫌だった。
帰省しても数日で寮に戻ってしまう僕に、母はいつも大喜びで歓待してくれるのだ。義父が呆れるほど笑顔を見せて。
昔とは別人のように疲れた女性になっていたけれど、それでも母だけが僕にとってはただ一人の肉親と思っていたから嬉しかった。
年々、気恥ずかしい気持ちと感情を伝えることが苦手になっていて表情に出せなかったけれど、やはり母は僕だけの母でいて欲しかったのだ。

「お帰りなさい。お兄さん、また細くなってない?」
私より細くてヤダ~っと笑う妹とは、あまり上手く話せなかった。
一緒に過ごした時間が短い妹は、確かに義父に似ていて、母の最初の夫によく似ている僕とはまるで違っていた。
だからこそ母の関心を僕から奪う心配はなくて安心できる存在ではあった。
弟を抜いた4人の生活。可もなく不可もなく、普通に過ぎていくものと思っていた。
義父の借金返済に必要な大金と引き換えに売られたのだから、これからは多少慎ましく暮らしていけばいいと。
金持ちだった筈の義父がどうしてここまで借金に苦しむことになったのかは分からない。
でもその為に子供を売ったというのに、その生活すら続かないなんて誰が思うだろうか。


ある時、中学生の妹が、高校は留学したいの、と義父に強請っている場面に出くわした。
渋い顔をする義父を見て、これは無理だな、と思ったけれど、妹はそれを目標に勉強するわ、とキッパリ宣言してみせた。
ふ~ん、と思いながら大学に戻った僕だったけれど、それから半年もしないうちに妹が某組織に売られた、と両親か聞かされて驚いてしまった。
「借金の返済で苦しいってのに、どんなに叩いても諦めないって泣き続けるのよ。親を苦しめる子なんて必要ないわ」
あなたは気にしないで、就活頑張ってね、と母が笑った。その背後には疲れたような虚ろな目で義父が一点を見つめていた。
(目に入れても構わないと豪語するほど可愛がっていたくせに、結局自分を守ったのか)
急場を凌ぐ為に売られた妹と、さっぱりしたと笑う母。義父はワザとらしく自分を責めるフリをしているらしい。
それを僕は醒めた目で見ていた。
もう長い間、母の愛情以外を欲していない僕にとっては、ちょっとだけ可愛くて少し我儘な妹のことさえどうでも良かった。
いや、僕と母さえ生き残れば、他はどうでもいいと考えていたのだろう。
けれども、その後、残った借金の支払いを一括して払うべきだと義父を騙し、更なる借金を作らせた男によって、僕たちは窮地に追い込まれてしまった。
夜逃げするしかないほどの罠に。
男が何故、義父を陥れたのか、今も分からない。でも、そんなことはどうでもいいのだ。
 そうされるだけの理由が、僕ら家族にはあったのだから。
幼い弟を奴隷扱いし大金と引き換えて、また借金返済の為に次は妹を打ったのだ。
世間からみれば、僕ら三人こそ悪鬼と呼ばれるに相応しいに違いない。

ほどなく家族全員が捕まり、それぞれ似合いの場所を用意したと嗤う男たちの手で連行されてしまった。
僕は、非合法な手で捕まえた人間を売買する秘密倶楽部へと売られ、両親はどこへ行ったのか全く分からないままだ。
生きているのかさえ不明だったが、もう僕の心は何も感じなかった。



2ヶ月ほど倶楽部で調教された僕は、今の持ち主に全てを握られていた。
身体と心。命さえも。
僕を支配する男は、妻と一緒に僕を嬲るのが大好きな変態だった。
眠ることさえ満足に許されない疲弊した身体と心。僕は病気になり、夫婦は僕を庭へと追いやった。
身体に掛ける布さえなく冷たい風に晒されて何日も熱で魘されて、もう死ぬんだろうなと絶望する。
明日、目を覚ますことはないかもしれない、そう思った。
けれど、仏さまはいるらしい。いや、悪鬼だろうか。
大きな木の陰で、死への淵を彷徨っている僕の前に大きな影が出来たのだ。

僕を見下ろすのは、異形の男。
男が人間じゃないのは、すぐに分かった。
指が8本もあるし、尻尾もある。何より、顔が紫色なのだ。
熱の所為で気が弱くなっていた僕は、ずっと考えていたことを男に頼んだ。
「お願い。あの夫婦を殺して。その代償として僕を一緒に連れて行って」
ニヤリと嗤った男は、正気に戻った時に契約しよう、と告げて姿を消してしまった。
僕へと指を一本、縦に振って。
急速に下がっていく熱。それと同じくらいに冷えていく心。
あの時、僕は自分の真の願いをようやく自覚したのだった。

家の中に戻され、いつものように嬲られながら、もう一度あの男が現れるのを待ち続けた。
数日が経ち、何もない空間から現れた男は僕の顔を見て嗤った。とても嬉しそうに。
圧し掛かるように男の上に乗り、進んで身体を交じわらせていく。
夫婦に虐げられ、僕の身体は傷だらけだったけれど、男は気にならないようだった。
逆に、僕が上になることの方が許せないようで、容赦ない力で僕を抑え付けると、いつまでも飽きることなく真上から犯し続けた。

男が僕の身体に満足し、ようやく契約が交わされたのは明け方だった。
男の幻術なのだろうか、僕の幻影のような者が現れて夫婦を二階へと誘い始めた。
呆然としていた僕を見た男が、外に出ろというように指を一本弾くように玄関へと向けた。
一言も喋らない男だったけれど、契約した時から僕にはその声がちゃんと聞こえていた。
首輪で繋がれ、鎖に引っ張られては夫婦と露出散歩させられた公園。そこで待っていろと言うのだ。
ニヤリと嫌な笑いをする男は、僕がその公園を好きなことを知っているらしい。
これから願いが叶うからか、ドキドキする鼓動。
夫婦の叫び声を聞きたくなくて、思わず早足になってしまう。
足は、僕の奥底から湧き上がる何かに止められないようにする為なのか、勢いを止めようとはしなかった。
けれど、それでいい。それでいいのだ。
そう、僕は人間ではなくなるのだから。



男の胸に強く抱かれ、先ほどの風景を思い出す。
冷たい風に晒されても、次の季節を待つ強い植物たち。
家族の顔は、もう思い出せない、思い出したくない。
僕が狂わせた、家族の顔は。 愛する母の昔の顔でさえ。
寒さを遮る大きな身体の中で震える僕を、男は一度ギュっと抱き締めると、行くぞ、と告げた。
頷く僕に、男が笑った気配がする。
血の匂いを漂わせる男。この男に僕は付いて行こう。
そこがどんな地獄だろうと、人間でなくなるのなら構わない。
漆黒の闇でしかなくとも、この偽りの光明を放つ世界から離れられるのなら。

強く僕を支配する、この男さえ居ればいい。
その瞳に映る愚かな僕を見続けるのだ。
それだけが、僕に出来る償いなのだから。
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