【  彼女の秘密を知る猫は 】     初出 ブログサイト 2010.11.16

暖かい布団の温もりに未練を残しながらベッドを抜け出すと、すぐさま足元に猫のライチが擦り寄って来た。
今では丸々と太っているけれど、路上で拾ってきた仔猫の時分はガリガリに痩せ細っていた。
「ちょっと餌を変えてみるべきかしらね」
甘やかし過ぎたかな、と反省して呟いただけなのに、まるで抗議するかのように、
「な~んっ」
ライチが私に返事をしてくる。
「ふふっ。駄目だって言いたいの、ライチ? そうねぇ、じゃあ餌の量を減らしましょうか」
今度の提案も気に入らなかったのだろう。
「なぁ~んっ、なぁ~んっ」
また返事をしてきた。

「もうっ。はいはい、ともかく顔を洗わせてね」
足元で楽しそうにじゃれ付くライチと一緒に洗面所へと向かった。
「今日は水曜日だったわね。ってことは、え~と、……そうそう、これだわ」
上から三段目の扉を開き、中から小さなバスケットを取り出す。
中には、よもぎを使った自然化粧品が入っているのだ。
そこから必要な物を取り出すと、蛇口を捻ってぬるま湯を出した。
石鹸を手に取り、まずは手を念入りに洗った。
勿論、擦らず石鹸の泡で汚れを浮き上がらせるように軽く優しく。
同じように指先と手首を洗った後、同じ要領で手早く顔を洗った。
泡が残っていないか鏡でチェックし、柔らかいタオルを肌に軽く当てて水気を吸い取っていく。
タオルを洗濯機へと入れると、顔面体操をする為に洗面台の前へ立った。
手と指を使って上下左右に肌を動かしていく。
最後に、肩を前後に解すように回してから居間へと移動した。

洗顔中は構ってもらえないので、いつものように先に居間へと消えていたライチ。
彼女は、朝日が当たっている明るいソファの背に干物のように身体を伸ばして、無防備な姿で日向ぼっこしていた。
「まぁ、おいしそう」
私の言葉にピクリとも反応しない。
こうなると彼女は気が済むまで動こうとはしないのだ。
「干物ちゃんは放っておいて、自分のを作りますか」
居間を通って台所に入り、パック詰めにしている一食分を冷凍庫から取り出した。
水を張った鍋でコトコトゆっくりと煮込んでいく。
その間にテーブルを拭き、北欧土産に貰ったクロスを敷いた。
テーブルの上には、同じく彼からプレゼントされた薔薇の花が飾られている。
ガラスの小瓶に挿してある二輪のうち、枯れかけている方を抜き出した。

台所に戻って手を洗うと、タオルで水気を拭き取り、食器棚に体の向きを変えた。
少し考えてから紅葉模様の小鉢とそれより少し大きめの深皿を取り出してトレーに乗せていく。
次に冷蔵庫からヨーグルトを取り出した。
小鉢にヨーグルトを入れ、プルーンとブルーベリーを濃縮したエキスを上から注いでいく。
大小のスプーン、お揃いのカップとソーサー、小鉢をトレーに乗せ、テーブルへと運んだ。
「な~んっ」
声の方を振り向くとライチが問い質すように私を見つめていた。
まだよ、と声を掛けると彼女は仕方なさそうに日向ぼっこを続行する。
微笑みながらシンクへと向かい、やかんに水を少しだけ入れて火に掛けた。

今日はオーガニックのインスタントコーヒーに決め、ビンをテーブルへと運ぶ。
ボコボコと鍋のお湯が沸いている音が聞こえたので、慌てて火を消した。
ライチの餌を棚から取り出し、専用の皿に入れて用意しておく。
催促するくせに、すぐに食べることのないライチ。
今日も私が食べている間に勝手に食べ始めるだろう。

ホクホクのポトフを深皿から掬い取り、ちょっとだけ冷ましてから口の中へ。
猫舌なので熱い物は少し苦手だった。
入れたばかりのコーヒーも、まだ数分はそのまま置いておきたい。
代わりに、大好きなヨーグルトを一口パクリ。
以前、ポトフとヨーグルトを交互に食べているのを彼に見られたことがある。
「美味いのか?」
咎めるように見つめてくる彼に困ったけれど、これが自分の食スタイルだと適当に答えて誤魔化した。
舌が熱くて嫌な思いをするよりも、変な食べ方だと言われる方がマシだったから。
一つ溜息を吐いた彼は、仕方ないかと許してくれたようだ。
その後の私との食事でも文句を言ったことはない。

ようやく冷めてくれたコーヒーを飲み干し、私の朝食は終わった。
「まだ食べてるの?」
空になった餌入れの縁(ふち)を何度も何度も舐めるライチ。
「な~んっ、な~~んんっ」
抗議するように私を見るその目は、ちょっと拗ねているように見える。
(ちょっとしか減らしてないんだけどね)
彼女からゆっくりと目を逸らし、台所へと食器を乗せたトレーを持って行った。
背後では、ピチャピチャと必死に舐める音が消えない。
(う~ん、でもやっぱり痩せた方がライチの為なのよね)
食器を洗いながら、どうやったら彼女の怒りを買わずに運動させることが出来るのかを考え続けた。

歯を磨き、顔を軽く洗って寝室へと戻った。
ドレッサーの前の椅子に座り、手早く完璧な化粧を施していく。
手馴れているから少しの時間で充分だった。
椅子から立ち上がり、6つの扉があるワードロープの左から3つ目の扉を開いた。
中には水曜日用の服がズラリと並んでいる。
その中から、紅葉模様の黒いワンピースを選んで取り出した。
これは前面が全て開くタイプで、ボタンの形と色が紅葉で統一されるという凝った品だった。
彼と一緒に出かけた際にプレゼントされ、秋になったら着る約束を交わしていた。
「うん、今の季節にピッタリだわ」
頷いて、彼から別の日に貰った鞄を一番上の棚から取り出す。

買って貰った鞄は自分の趣味とは違ったけれど、どうせすぐに売りに出すのだから高ければ高いほどいい。
「ごめんね。でも毎回のように鞄を買ってくれるから、この棚には入らないのよ」
世間からは眉をひそめられるだろう仕事をしている私には、とても大きな借金があった。
まだまだお金はいくらあっても足りないのだ。
勿論、彼だって薄々は感じているだろう。
自分の買っているものが売却されていることは。
それでも、これからも沈黙を通すに違いない。
何故なら、彼もまた大金を払って私と会っているのだから。
私と出掛けることが楽しいと笑う彼。
二週間に一度、水曜日にしか会えないからと、必要ないのにプレゼントを私に選ばせるのだ。
結果、それらの殆どを質屋に高く買ってもらい、その代金は銀行口座に入金していた。
今では見るのも怖い金額になっている。
(それでも足りない私の借金。はぁ~~っ)

洋服が派手なので、今回は柄のないストッキングを穿くことに決めた。
次に、彼と一緒に選んだブラとパンティを手に取り、それをベッドの上に乗せていく。
鏡の前に立ち、ゆっくりと上下の絹パジャマを脱いだ。
パジャマ以外は何も付けずに寝ているから、目前に映っている女は全裸だった。
染み一つ、傷一つない身体。
惟一つ、あるべき繁みが見当たらない。
彼に会う度、ほんの僅かに伸びた部分を綺麗に剃られてしまうのだ。
ベッドからブラを手に取り、形を整えながら後ろでホックを止めた。
次にパンティ。これもお尻の形を整えながら穿いていった。
椅子に垂らしていたストッキングを掴み、ゆっくりと時間を掛けて穿いていく。
こればかりは、急いだら後で困るのだから慎重にするしかない。
お尻を数回振り、綺麗に穿けていることを何回も鏡で確認した。
その様子を、鏡の中からライチが顔を斜めに傾げながら見ているのが可笑しかった。

手早くワンピースとコートを羽織り、寝室から廊下へ出る。
玄関へと向かいながら、窓全てに鍵が掛かっていることを確認した。
(忘れ物はないわよね)
明日の午後まで戻って来られないので慎重に部屋を見て回った。
(ガスも水道も大丈夫。ライチの餌と飲み水も用意したし、トイレ用の砂も換えたからOK)
並んで歩くライチは、これから飼い主が出掛けるのに気付いているのだろう。少し寂しそうに見える。
靴を履いている私にじゃれ付くライチをそっと抱き上げ、言い聞かせた。
「ごめんね、ライチ。明日の夕方、ううん、出来るだけ早く戻ってくるから、大人しく待っててね」
その言葉が分かったのか、彼女は、
「な~んっ」
いつもの鳴き声を短めに発して、その場にちょこんと座った。

可愛らしい仕草に、私は一瞬、出掛けるのを止めようかと思ってしまう。
「出来たらそうしたいんだけどね」
本音を洩らしつつも、彼の楽しそうな笑顔が思い出され、慌てて時計を確かめた。
「遅れてるわっ。ごめん、ごめんね、ライチ。じゃ、私行ってくるからっ」
急いで玄関を開けて廊下へと出る。
「な~んっ」
小さな声が聞こえてきたけれど、それを振り払うように鍵を締めた。



遅れて来てごめんなさいと謝る私を、彼は優しく微笑んで許してくれた。 
ワンピースが似合っている、買って良かったと嬉しそうに何度も褒めてくれるので少し恥ずかしい。
それから彼の所有する運転手付きの高級車に乗り、有望な若手だという男性の個展会場へと向かった。
車中では、今日までの二週間で世界に何が起こったかを楽しそうに話す彼の顔を見つめていた。
その詳細な解説に頷いたり、分からない単語が出ると躊躇なく聞いたりして時間はすぐに過ぎてしまう。

連れて行かれた個展は、私のように無教養な人間でも思わず胸が温かくなるような、子供の笑う顔をモチーフにした絵画だった。
穏やかな気分で全ての画を眺めて回る私に彼が囁いた。
「この画家の父親が友人でね。少し挨拶してくるよ」
私は彼に頷き、ごゆっくりなさってねと告げた。
暫らく画を眺めていたけれど、彼が少しも戻って来ない。
ちらっと彼の方を確認すると若い画家の隣に立つ恰幅の良い男性と愉快そうに談笑していた。
(あらっ。あの方は、つい先日、新しく契約した……)
画家の父親だという男性は、私とも縁があるようだ。
いや、元々彼と知人であり、その縁で私を知ったのだろう。

向こうが私に声を掛けないのなら、私から声を掛けるのは控えるべきかと少しだけ悩んだ。
(今日は、彼の連れとして来ているのだもの。私の存在を公にはしたくないだろうし)
彼にしても画家の父親にしても、私のような女は他人に紹介しにくい筈だ。
勿論、世間は狭いし、やがて噂は広まっていくのだろうけれど。
新しい契約者の存在には気付かなかった振りをして、昼食へと向かう車中で画家の将来性を話す彼の肩に身体をもたれた。
(ちょっとだけ、疲れちゃったかも)
想定外の人物に会って気付かれしたせいだろう。久しぶりに神経が高ぶってしまったらしい。
目を閉じていると、彼が私の両手を掴み、優しく揉むように手を動かしてくれた。
話す内容も、何てことはない世間話になっている。
穏やかな彼の声を聞きながら、段々穏やかな気分になる自分に少しだけ笑い、それでも彼の肩から身体を起こすことは出来なかった。

豪華なホテルで美味しい昼食を摂り、その後はホテル内のショップを二人で見て回ることになった。
気に入った品物を見つけるとすぐに私にプレゼントしようとするので、その度に首を振って断るのが大変だった。
「何も買ってあげられないなんて、つまらんな」
子供のように不貞腐れる彼に苦笑してしまう。
ほんとうに小さな子供が拗ねているみたいだ。
「その分、これから私を楽しませて下さい」
恥ずかしかったけれど、彼の耳元にそう囁いた。
握り合った手が、ギュっと強く握り締められ、それが彼からの返事となった。

最上階に近い部屋に案内され、彼と一緒に中へと入る。
音を立てずに丁寧に扉が閉めるられると、私と彼の二人っきりの時間だ。
私の父親より10歳以上も年上だという事実を、どうやら彼は気にしているらしい。
けれども、私はそれぐらい年の離れている人が好きだった。
だから、何の問題もないのだ。これまでもそうだったし、これからもそうだろう。
「お願い、ここに来て。……そして、私を抱いて」
甘く優しく、穏やかな、それでいて生々しい欲望。
雰囲気を大事にする彼だったから、これ以上は大胆に誘う訳にはいかない。
ゆっくり近付いてくる彼の指に自分の指を絡め、寝室の方を振り向いた。
これだけで彼には分かるはずだから。
次の瞬間、彼の身体が動き、私の前に現れた。
掠めるように唇が奪われる。

そっと唇が離れていき、何事もなかったかのように彼は私の手を引いて歩き出した。
(う~ん、この人だけよね。ここまで来るのに時間が掛かるの。セックスも優しいし、やっぱり一番好きだなぁ)
大勢と付き合ってきたけれど、こんなに穏やかな時間を私に与えてくれる人は誰もいなかった。
勿論、優しい人は多い。
それでも、どちらかというと、やっぱりセックスの時間が長いのだ。



ろくでもない男に騙され、無残に散った女の証。 
陰気な顔で見るなと殴られ、何日も続く暴力に怯えた私はいつしか着の身着のまま逃げていた。
誰かに助けを求める前に掴まえられて、更に手酷く犯される。そんな毎日が嫌だった。
だから、自分から身を売ることにしたのだ。
私を騙して借金を背負わせた男から逃げられるのなら、それだけで充分だと。
無条件で大金が手に入ると男は喜び、私を知人に紹介された店へと引き渡してくれた。

ジロジロと私を値踏みする店の女性たち。
必然的にライバルになるから、その目のどれもが真剣だった。 
やがて、彼女達は安心したように私の前から離れていった。
どうやら私はライバルにもなれないらしい。
思わず溜めていた息を吐いた私の腕を掴み、オーナーが呼んでいると黒服のマネージャーが告げた。
連行されるように店の奥の階段を上がり、三階の事務所へと向かった。
あっさりとドアの前で去って行くマネージャー。
私は目前のドアを軽く叩くと、恐る恐るそれを開いていった。

その店のオーナーは少しばかり変わっていた。いや、かなりオカシカッタ。
(えっ、何歳なの、この人? いやいや、それよりも優しそうな女性、なんだけど)
私と同じか、少しだけ年上のようだ。
どうやったら、この年でこんな店を経営出来るのだろうか。
上品な服装に合った、お淑やかで穏やかな口調。どこかのお嬢様にしか見えない。
後から分かったのだが、彼女も以前は私と同じ仕事を引き受けていたという。
勿論、何某かの事情があったのだろう。
一年も経たない内に、元契約者から強引な手法で身請けされたのだと、その時、彼女が教えてくれた。
身請けしたという彼は、自分が忙しい時に安全に置いておける場所として、この店を彼女に任せているらしい。
普通は、別の職種の店を任せるのでは、と聞いた私に、彼女は穏やかに笑って告げた。
「私の持ち主は、この一帯を取り仕切っているのよ」
これ以上は聞かない方がいい、そう言われて私は黙って頷いていた。


「それで、貴女の好きなタイプは? どんな人になら丸一日、お付き合い出来るのか聞かせて」
乱暴なあの男は、この店に高額な値段を吹っ掛けたらしい。
私の仕事内容は、聞けば聞くほど最低最悪だった。
一週間のスケジュールはこうだ。
月曜日の朝から火曜日の昼過ぎまで。
水曜日の朝から木曜日の昼過ぎまで。
木曜日の夜から金曜日の昼過ぎまで。
金曜日の夜から土曜日の昼過ぎまで。
土曜日の夜から日曜日の夕方まで。
それぞれ契約した男性に時間ギリギリまで付き合う。
当然だが、セックス込みで断ることは許されないという。

「この店は会員制だから、それほど酷い方はいないけれど。やっぱり好みはあるでしょうし、相性もあるから」
最初は好きに選んでね、とオーナーは言う。
今の言葉には、自分の経験も入っているのだろうか。
どうしようと迷ったけれど。
最終的に、若い男は怖いから、年上、それも父親より上の会員の方をお願いした。

私の選択を頷いて了承してくれるオーナーは、どう見てもお淑やかな令嬢だった。
「こんな最低の仕事をしていたようには見えない」
そう思わず呟いてしまった私に、彼女は小さく笑った。
「私が選んだのは、誰よりも大金を払ってくれる会員だったのよ。両親の借金があったから急いでしたしね」
私と同じ理由だったけれど、まぁ大抵こんな職業を選ぶしかないわよね。
「でもまさか、たった一人の契約者が今の私の持ち主だなんて皮肉だわ」
目を伏せる彼女の横顔は憂いていたけれど、とても綺麗だ。
そういう意味では、持ち主だという男の目は確かだと思う。 

唇を奮わせた後、オーナーは衝撃の事実を告げた。
「私を見初めた男が、私を手に入れる為に両親を陥れたのよ。自分たちではどうにも出来ないところまで追い詰めて」
内緒よ、と微笑む彼女は本当に儚げで、それなのに凛とした何かを感じさせてくれた。
「…結果、愚かな私は自分から身を売ってしまったの。彼の考えた通りにね」
だから、この店の裏のオーナーである彼だけが、彼女の契約者になったのだろう。
そんな理由なら、彼女の上品さが少しも損なわれていないのは当然だ。
彼の望みは、お嬢様らしい彼女自身だったのだから。
今でもきっと、彼女が変わらないように周りに目を光らせていると想像するのは容易い。
(その男の人を、今でも憎んでるのかしら)
聞きたいような、聞きたくないような。
今でも時々会うけれど、オーナーの穏やかな雰囲気は全く変わることなく、それが私は嬉しかった。



「もう、これでお別れとは。まったく楽しい時間だけは早く過ぎてしまう」
彼が残念そうに嘆いた。
息子、孫息子ばかりで、一人も身近に娘がいないらしい。
私にプレゼント攻撃を仕掛けるのも、そんな欲求不満があるからなのだ。
「また来週会えますから。とても楽しみですわ」
私と契約を結ぶ方たちは年上のお金持ちなので、自然と私も言葉遣いを変えるようになってしまった。
実際、彼らの傍に居る女性たちは上品な言葉しか知らないだろう。
「うん、そうだな。仕事を頑張って良かったよ。久しぶりに連続で会える」
唇を優しく啄ばまれ、私はそれに応えるように離れていく唇を軽く舌で舐めた。
「こらこら。ただでさえ離れ難いというのに」
彼の困り顔が楽しくて、私はつい微笑んでいた。
「まったく、……来週はもっともっとベッドで苛めてやろう」
笑って囁く彼に、私は顔を赤らませたまま頷いた。
「ええ。待ってますから」
ギュっと握ってくる彼の指の強さに私は幸せを噛み締めていた。


玄関の扉を後ろ手に締めていると、寂しさに耐え切れなかったのだろうか、ライチが飛び掛って来た。
部屋に誰かが(猫だけど)待っていてくれる。それだけで嬉しい。
抱き上げたまま居間へと移り、ソファに座った。
そのまま頭から倒れるように寝っ転がる。
胸元に乗ったライチの重みに、何故か涙が零れそうになってしまった。
(どうしたんだろう。いつもと同じ別れだったのに。来週だって会えるじゃない)
首を傾げて私を見つめるライチ。
その表情に私は微笑み、目蓋を閉じた。
暫らくしたら、今日の疲れをお風呂でゆっくり解さなければならない。
水曜日用のよもぎの匂いも身体を擦って落とすのだ。

今日はもう木曜日。
そう、木曜日の彼の為に、彼の望む匂いを身に纏い、彼の好きな服を着て、彼の望む言葉を耳元に囁く女になる。
一度契約したら、誰かが私を身請けするまで、私はこの契約から逃れることは出来ないのだから。
(土曜日の彼は、今頃、どこを旅しているのだろう)
長年連れ添った奥様の療養がてら、外国旅行へと旅立ってしまった。
空いた曜日を埋めたのは、そうあの個展にいた画家の父親だ。
必ず紹介者を必要とする狭い世界。その中で翻弄されるだけの私。
あっちへ渡され、こっちへ向かい。
けれど、それも自分で選んだ道なのだ。
オーナーのように、もしかしたら誰かが私を選んでくれるかも知れない。そうならないかも知れない。

決める権利を持たない私を、世間は笑うだろうか。愚かなオンナだと。
それでも良かった。
たった独りきり、この醜い世界で生きていくのは難しいから。
「な~んっ」
暖かい生き物。ライチ。
彼女だっていつかはいなくなってしまう。それでも、今だけは。
まだ、ライチは私の庇護を必要としてくれているのだから。
最初に拾った時は、絶対に途中で放り出すと思った。
でも、彼女はこんな私の世話でもスクスクと大きく成長してくれたのだ。 
もしかしたら、私は彼女を育ててきたつもりで、逆に彼女に教えられたのだろうか。
人は、どんなに無関心を装っても、心のどこかで誰かの、何かの温もりを求めているんだと。

「な~んっ」
いい加減に起きろと、自分を構えとライチが鳴いているのに少し笑ってしまう。
きっと、私がいない間、日当たりの良いソファの上で、干物になって過ごしていたはずだ。
「はいはい。起きるから。……もう少し、ほんの少しでいいから待って」
目を瞑ったまま、いい加減に答えておく。
それに対して、この家の我儘お嬢様猫は。
「な~~んっ」
尻尾を激しく振って、私の身体へとそれを何度も振り落としてきた。
この攻撃は、いいからさっさと起きて構えってことらしい。
(何で、こんなに我儘になっちゃったのかな。普段は怠け者、じゃない、怠け猫なのに)

今夜会う木曜日の彼と、月曜日の彼は猫が大好きだった。
当然、ライチも気に入っている。
必ず一緒に連れて来るようにと指示されており、ご機嫌のライチを籠に入れて出掛けるのだ。
相思相愛の変則2カップル。
私はその間、彼がライチの相手を止めるまで放っておかれてしまう。
猫を相手に拗ねるのも釈然としないし、さすがに大人げないと我慢している私。
それでもたまにオーナーに愚痴って慰めてもらおうとするけれど、彼女もまた大の猫好きなのだ。
「だ~か~ら~。夜になったら一緒に出掛けるし、貴女を大好きな男の人にも会えるから」
薄目を開けて私の胸の上に体重を乗せているライチを盗み見た。
尻尾攻撃を仕掛けるお嬢様猫は楽しそうだ。
(ご機嫌だね~。良かったね~。でも、そろそろ重いから胸から下りてくれないかなぁ)

最低最悪な仕事だと今でも思っているけれど。
どうしてだろう。契約している彼らは、どこか一つ、必ず私の琴線に触れて穏やかで優しい気持ちにさせてくれるのだ。
そう、今だって。
私の脳裏には、大金を払っている私を放り出し、丸々と太ってしまった猫を更に太らせようとする彼の姿が浮かんでいるのだった。

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