【 刺激ある毎日を 】 初出-2010.10.29

コップには、可愛い透かし模様が入っていた。
その優しい色合いに少しだけ癒されるような気がして、思わず両手に取って眺める。
花と葉の繊細な模様が入った両方のコップは大きさが微妙に違っているだけで、どちらに決めることも出来ない。
それでも手持ちの貨幣の残りを考えると、やはり一つしか選べないのだ。
「どっちにしようかな~」
チラチラと他の客に見られながら唸ること数分、ようやく右手に持っている方を購入することに決める。
店員に代金を支払い、紙に包んでもらったそれを手にすると提げていた巾着袋に入れた。
軽かった袋が急にズシっと重くなり、嬉しくて思わず笑みを浮かべてしまう。
買い物をしたという実感が、こんなに心を暖かくするとは思わなかった。

両親を早くに亡くした僕は、はっきり言って貧乏だ。
近所の土産物屋で働いているが、お給料は家賃と食費に消え、自分の服などは二の次になる。
明後日の自分の誕生日ですら、いつも通り過ごすことになると思っていたのだ。
今回のように臨時収入がなければ。
もっとも、それすら借金の返済に使ってしまい、残ったのは僅かだった。
それにしても明日一日働くだけで、あんなにたくさん前金がもらえる仕事があるなんて。
世の中って不思議なものだと思った。
知らないだけで金持ちは大勢いるんだろう。

僕の働いている土産物屋に毎日やって来る某行商人が、コソっと耳打ちして教えてくれた特別な仕事。
それは、たった一日、気難しい老人の家を掃除するだけだという。
もらえる金額の大きさに驚いて声も出ない僕に、その行商人は笑って告げた。
「偏屈で有名な老人なんだけどさ。近々、息子夫婦が久しぶりに来訪するらしくてな。汚い部屋のことで口論になるのが嫌なんだとさ」
普段は無口な行商人がニコニコ笑っている姿が珍しくて、僕はただ黙って聞き続けた。
「誰か紹介してくれないかって言われて困ってるんだ。でもホントお得意様なんだよ。な、頼むよ」
土産物屋の店主にジロジロ見られながらも、僕はその金額の大きさで頭が一杯になっていた。
(それだけあれば、両親のお墓を建てた時の借金が全部返済出来るじゃないか)
大急ぎで行商人に頭を下げると、自分にその仕事を回してくれるように頼み込んだ。
鷹揚に頷いてくれた行商人に感謝を述べ、去っていく姿を僕はいつまでも見送っていた。
仕事しろ、と当然のように後から叱られたけれど、頬を緩ませ続ける僕を店主は不思議そうに見つめるのだった。


薄汚れた巾着袋を手に持ち、偏屈だという老人の屋敷へと向かった。
やがて見えて来たのは、見上げるほどに大きな建物。
手前にある門は黒光りしており、それだけで僕は圧倒されてしまう。
僕の住んでいる長屋とは大違いだと思って。
まるで別世界に来たかのようだった。
そうは言っても、隣の住人の声など丸聞こえの安普請な長屋と、この屋敷を比べる方が変なのは分かっていたから、すぐに気を引き締める。
貧乏人の僕と、自分の屋敷を持てる大金持ちの老人。比較するなんて失礼極まりない。
掃除の為とはいえ、この屋敷に最下級の僕が入れることを喜ばなければ。
圧倒する高さの門をゆっくりと押していくと、最初から閂が外されていたのだろう、あっさりと中へ入ることが出来た。
(うわ、庭、広っ。・・・でも、汚い。まさかここも僕が掃除する、なんて言わないよね。それは嫌だなぁ)
緑が生い茂るなんて言い方じゃ追い付かないほどに背の高い草木。
伸び放題の大木がズラっと続いているのに目眩がする。
(まさか、本当にこの庭も掃除するんじゃ)
庭を横目に眺めながら歩いて行くと、ようやく玄関へと辿り着いた。
「何でこんなに、広いっ・・・わけっ」
一本道だから良いものの、門から玄関までが遠過ぎて息が上がってしまった。
聞こえないように小さく悪態を吐いた後、慌てて周りを見回し、誰もいないことにホっとする。
それから数回大きく息を吸って呼吸を整えると、コンコンっと扉に付いているノッカーで叩いて住人を呼んだ。

まだかな、そう思い始めた頃、扉がゆっくりと開かれていく。
現れたのは、この屋敷を預かる執事のイザーキットさんだった。
例の行商人から彼のことは聞いていたから、僕は臨時に雇われてやって来た掃除人だと告げた。
頷いた彼に導かれ、主である老人の元へと向かう。
「御主人様は、生涯を通して研究しておられる生物を観察中です。お前は何も話さないように。私が簡単に紹介します」
「分かりました」
研究って何だろう、と思ったけれど、イザーキットさんの冷たい雰囲気に聞くことは出来なかった。
(なんか、嫌な感じの屋敷だよな。ここで一日掃除をして回るのかぁ)
イザーキットさんは主人の身の回りの世話をするのが主な仕事らしく、清掃は普段使う場所だけを重点的に行っているらしい。
それ以外の部屋、つまり、今回訪れる息子さん夫婦を泊める客室や応接室など、埃まみれの部屋が僕の担当というわけだ。
白髪がちらほら見えるイザーキットさんには、全ての部屋を管理するのは難しいのだろう。
何と言っても、これだけ広いというのに使用人は彼一人だけだというのだから。

庭と同じように広い屋敷の中にウンザリしながら、僕は無言の執事の後を付いて歩いて行く。
通り過ぎる扉の色が、各々鮮やかな原色に塗られているのを不思議に思いながら。
最奥にある黄色の扉の前で僕らは足を止めた。
扉には『堕ちたくなければ、注意せし』と書かれている。
(堕ちる? どういう意味だろう)
疑問に思って尋ねたくとも、さっさと扉を開いたイザーキットさんは中へと入ってしまった。
慌ててそれに続き、中へと進んで行く。
あの時、何故扉の文言の意味を考えなかったのか。
後に後悔することになったのだが、この仕事を引き受けた段階で大金に目が眩んでいた僕には、逃げ場など初めからなかったに違いない。

入った先に地下へと下りる階段があった。
転ばないようにゆっくりと、少し早足の執事に置いて行かれない速度で背後を付いて行く。
壁がコケか何かで光っているのに驚き、身体を支えようと伸ばした掌を下ろして握り締める。
長いような短いような、幻想的な空間を歩き続けた。
やがて、目前に重くて分厚い鉄製の扉が現れた。
その扉をゆっくりとイザーキットさんが開いていく。
少し歪んだ表情に、本当に重いのだと気付いた。
「手伝いましょうか」
思わず口に出してしまった僕を、執事はギっと睨んで黙らせようとする。
(そういえば、さっき黙ってろって言われたっけ)
ここが研究室なのだ。もしかしたら、僕の声が老人に聞こえてしまったかも知れない。
慌てて口を噤み、しゃべらないとイザーキットさんに頷いた。
その様子を無言で見返す執事が怖かった。
(うわ~、失敗しちゃったみたいだ。さっさと挨拶したら、急いで掃除して家に帰ろう)
何も言わずに部屋の中へと入って行くイザーキットさんの後ろを、僕はオドオドしながら付いて行った。

「その子供かね。ふむ、アレが気に入るといいが」
皺だらけの老人が、僕を見つめてそう言った。
手には汚れた平らな皿を持っており、その皿の上に乗った何かがピチャピチャと跳ねていた。
(何だ、あれ? 小さな魚?)
それほど距離は離れていないのに、何が動いているのか見えない。
「思ったよりも生育が良くないようだの。栄養失調じゃなかろうな」
僕の身体をじろっと眺めた老人が胡散臭そうに告げた。
その言葉に真っ赤になってしまう僕だったが、これでも独りで精一杯生きて来たのだ。
何か一言でいいから言い返したかった。
「あっ、あの」
そんな僕を遮るように、イザーキットさんが早口で主人に返した。
「大丈夫でございます。詳細に調べさせてありますし、これが消えても世間で騒ぎ出す者は誰もおりません」
「そうか。ならばその子供でいくとしようか」
主従二人のやり取りに、僕の背中を悪寒が走った。
(消える? 僕が? 僕でいくって、何をさせるつもりなんだ)
なんのことだか分からない。でも怖い。
怖い何かが起ころうとしている、そう理解した瞬間、額から汗が噴出してくるのが分かった。
(に、逃げなきゃ。逃げるんだっ)
自分でも説明できない恐怖に駆られ、僕は足を一歩後ろへと下げた。

次の瞬間、それまで気配を見せなかった何かに、僕は身体中を羽交い絞めにされてしまう。
「いひぃ~~っ! な、何、な、な、んだってんだっ! い、いや・・・だっ、いやだ~~~っ!」
どこからともなく伸びてくる無数の細長い蔦のようなモノが僕に巻き付いて離れようとはしない。
それどころか、凄い力で締め付けてくる。
「おうおう、元気がいいじゃないか。これなら良い仔が産まれるかも知れんな」
「はい。お坊ちゃまのような、素晴らしいお子様がきっと産まれてくることでしょう」
蔦によって天井近くへと持ち上げられてしまった僕を、楽しそうに見つめる主従が怖かった。
その言動は、これまでの人生では想像出来ない不気味さを放ち、怖じける僕を更に萎縮させていく。
跳ねる何かを乗せた皿を手近な机に置くと、老人がイザーキットを抱き寄せて唇を奪うのが見えた。
嬉しそうにそれに応じる執事の背中。
目の端に映るのは、確かに異常な光景だった。
だけど、自身に起こっている事態にパニックになっていた僕はそれを無視して喚くことしか出来ない。
理解不能。混乱、惑乱、恐怖にパニックしている僕は、蔦の絡まる身体をそれでも必死に動かしていた。

▲▲▲

いつしか部屋の中は薄暗くなっていた。
蔦が伸びては餌に絡まって光を遮っているからだ。
「お前の精液と私の精液で育てたアレで、美しいだけの愚かな妻を強姦した時ほど興奮したことはなかった」
ねっとりと口付けを交わす主従。
舌を絡ませ合う音が淫靡に部屋中を駆け巡っていく。
やがて、たっぷり唾を飲んで満足した執事は、舌を解くとうっとりした表情で告げた。
「あの澄ました奥様が泣き喚いた挙句、最後は自分から必死に腰を振ってアレを欲しがって。本当に見物でございました」
にっこり笑った執事を主人である老人が床へと押し倒した。
ビリビリっと激しく服を破かれても、執事は嬉しげに主人を見上げている。
「今度は金で買ったあの傲慢な嫁をアレに犯させると考えただけで、ほら、こんなに興奮しておるわい」
老人が下半身の膨れた部分を、同じように興奮している執事へと擦り付けていた。
「あぁう~。御主人様っ、あぁ~、あっ、ああぁ~~っ」
「ククク。そんなに慌てるでないわ。息子も嫁にウンザリしておるようだし、一緒に見物して三人で楽しむのも良いかも知れんな」
狂った妻と三人で交わった光景が思い出されるわい、とニンマリと嗤う老人の声は、持ち上げられている餌となった少年の耳に入ることはなかった。
入ったところで理解出来なかっただろう。
執事が尊敬する主人を濡れた目で見つめる淫らさも、永遠の忠誠を誓った玩具としての悦びも。


床で転がるように交じり合う一組の人間たちを、彼らに育てられた生物は何の感慨もなく見下ろしていた。
[テラ・カックス]と名付けられた蔦状の生物。
この屋敷の主が偶然に造り上げたモノで、人間の精液を餌として成長していた。
前回、女という人間を犯した時、自分らの大部分が女の中に吸収されてしまい、今生き残っているのは、ほんの僅かしかいなかった。
餌を毎日たっぷり食べて、どんどん同胞を増やさなければ、またすぐに減らされてしまうかもしれない。
そんな焦りのようなモノが彼らの中に生まれていた。
根っこは繋がっているが、一本一本はそれぞれ成長の早さも違っており、思考も別々に持っている。
一本だけが餌を大量に吸収すれば、その部分のみ太く長くなっていく。
ほかのモノが聞こえない悲鳴を上げようとも、栄養を奪うことは出来なかった。

これまでのところ、毎日与えられるのは老人の精液であり、あまり栄養はなかった。
偶にもらえる執事の精液も、そう多くの栄養がない。
もっともっと美味しい餌が必要だった。
そうすれば、以前のように女を犯すことが出来るようになるはずだ。
あの噎せ返るような甘い興奮を、もう一度楽しむことが出来る。
「もうすぐだ。もうすぐ美味い餌がやって来るからな。たっぷり栄養を取って大きくなれ」
毎日薄い精液を出す老人が、笑って告げたのは最近のこと。
「私と御主人様の愛の結晶。その方に嫁いだ奥さまをたっぷり犯して、可愛い赤ん坊を私に見せておくれ」
老人に抱かれた後、身繕いをしながら話し掛けてきた執事は、にっこり笑っていた。
そんな二人の交わりを見ているだけなのは飽き飽きだ。
空腹で満たされない毎日に変化が欲しい。
「美味い餌で太く長く育って、息子の嫁と交じるが良いわ。ぶっといので貫かれて、あの嫁がどんな顔で善がって壊れるのか、今から楽しみだのう」
「あの女に出来るのは、快楽と引換えに子供を身篭ることだけですから。あぁ、今から子供を育てるのが楽しみです」
彼らが言う女も子供も今は興味がない。大事なのは、餌が与えられるということ。
目前で交わる二人以外なら、どんな人間でも構わない。
早く、その人間の精液を味わいたい。
たっぷり犯して、干からびるまで吸収するのだ。

数十年前に産まれた子供。
彼はもうすぐ我ら同胞に精神を乗っ取られてしまうだろう。
あの三人が交わった時に同胞をワザと吸収させ、潜り込ませたのだから。
ただ、予想以上に同胞が減ってしまったことで困ったのも事実だ。
老人の持つケースに簡単に仕舞われる数にまで減り、この屋敷を自分たちのものにすることが出来なかった。
時々やって来る子供が眠っている間は、同胞たちと知識を共有できたのが救いだろう。
あの子供は我らを吸収した女腹から産まれた為、同胞を受け入れ易い身体を持っている。
次にこの屋敷に戻って来る時には、同胞に意思を乗っ取られて人間とは別モノになっている筈だった。
一度蝕まれた者は、元には戻れないのだから。


テラ・カックスと名付けられた我らに、久しぶりに新鮮な餌が与えられていた。
いまだ足掻いている餌もこのまま貪り続ければ壊れて大人しくなるだろう。
栄養を全て吸い取ったら、次は二人の言う女と交じることにしよう。
あの時のように、蓄えた栄養と同胞の多くを奪われてしまうかも知れないが、結果的に孕んだ腹子は我ら同胞にその体を乗っ取られるに違いない。
老人に造られた我らが、その老人の全てを奪って人間として生きていく。
それも大勢の人間を栄養とし、女を介して同胞を増やしながら。
これこそが、究極の皮肉というものだろう。
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