【 闇市 】 初出-2013.12.12
ぼんやりしている僕の前に大きな板が立て掛けてあった。
でも、それは二十人ほどの大柄な身体に阻まれ、チラチラとしか見ることが出来ない。
灰色のマントで覆われた男たちが板に群がり、先を競うようにして文字を書いているのだ。
手早く書いている者が多いのか、板を引っ掻くような音が部屋中に響いていた。
何が行われているのか分かっているのに、僕はその光景に何も感じなかった。
多分、色んなことがこの数か月に起こったからだろう。
今、僕が立っているのは、大きなテントを幾つも組み合わせて建てられた移動市場だ。
裏場や闇市、あるいは人買い市場と呼ばれている。
天井の布部分を開けているから空が見えるのが少し面白かった。
熱気とも違う淀んだ空気が肌に纏わりついてくる。
そんなテントの一角に、男たちが群がる一枚の大きな板は用意されていた。
丸で囲まれた枠は八個。
これから売り出される商品が八個あるということらしい。
健全な商売で各地を渡り歩くついでに攫って来た、良家の子息や令嬢たち。
荷馬車に乗せた大きな衣装箱や、油がたっぷり入る壷など、家族や従者の目を盗んで連れ出した少年らを隠す場所は幾らでもあった。
下町の子供では楽しくないと怒る客が多くて、わざわざ大きな街まで出掛けては家柄の良い家の子供を攫って高値で売っているようだ。
だからといって下町の子供に価値がないわけではなかった。
彼らは使い捨ての奴隷や下働きとして大量購入されるからだ。
もう一度、自分に言い聞かせよう。
そう、ここは、転々と場所を変えながら行われる闇市の中。
誰も子供らの未来など考える者はいない。
僕にもそんな余裕はないし、自分のことで精一杯の日々を送っている。
だから、あえて醒めた目で売る者と売られる者を眺めることしか出来ないのだ。
余計なお節介は無し、一言も喋ってはならない。
常に冷静に周りを観察し、ただ立っているだけに徹しろ、と。
八個の枠の上には、それぞれ番号がついていた。
最初に買いたい商品を檻の中から選び、その首に付けられた番号と同じ枠の中に名前を書くことが出来る。
そして支払える金額を横に書き入れていくのだ。
同じ商品を買いたい者がいれば、先に書かれた名前と金額を二重線で消して、自分の名前と金額を書き込んで権利を主張することになる。
当然だが、金額が高い者にしか商品は与えられないので、最後に書き込んだ者が勝者となった。
ぼんやり男たちの様子を見ていた僕は、後ろから急に鎖を引かれて悲鳴を上げた。
「うぐ~~っ。う、うぅ~、ふぐっ、……ふぐぅあぁあああ~~~っ。あっ、あがっ!」
主人の手によって巻かれている鎖がギリギリと首を締め上げていく。
段々と引かれる力が強くなって息が止まりそうだった。
殺される前に許しを請わなければ、と必死に背後を振り向いた。
言葉を出すことが出来ないから視線と腕を伸ばすことで懇願を繰り返した。
ボロボロと涙を溢したことで少しは機嫌が直ったのか、主人が鎖を引く力を緩めてくれた。
「ぐぁはっ、がっ、あがぁっ。がっ、があっはっ・・・はっ、はっ、はっ・・・」
痛みと恐怖にガクガクと震える足を叱咤し、何とか主人の傍へと歩いていく。
悠然と立っている主人は、僕が何度もよろける様を面白そうに見ていた。
▲▲▲
大きな鳥なのか、羽ばたく音が窓の外から聞こえている。
首の痛みはまだ消えていなかった。死に直面した恐怖も残っている。
でも、それを憂う優雅な時間など今の僕にある筈もない。
舗装されていない道を主人と乗り込んだ馬車が走っていた。
ガタガタと石を飛び越える音が何度も繰り返されて、その度に僕の身体は浮き上がりそうになる。
主人から事前に聞いていた今回の闇市は、下町の中の廃墟を使って開催した為に、予想より小規模になってしまったそうだ。
あれで小さいのなら、大きいのは街のど真ん中にでも作るのだろうか。
見つからないのか疑問だったが、何か口実を作って市を開催するのかも知れない。
そんなことを考えていると、隣に座る主人が唇を歪ませて腹立たしそうに呟いた。
「無駄足だったな」
社交場と違って人目を避ける必要がある為、主人も他の方々同様に灰色のマントで身体を覆って競りに参加していた。
普段から汚いモノが大嫌いな人だから、マントまで羽織って参加したのに何も買う物がなかったことを許せないようだ。
闇市では美術品なども売買されており、今日は絵画を購入する為に主人も参加していた。
滅多にないが、時々掘り出しモノが見つかるようで、今回は特別だという噂が出回っていたらしい。
そう、僕を買った日のように、地位の高い主人が稀に食指を動かされるのだ。
二年ほど前のこと。
学校の授業が終わった僕は、乗り合い馬車の待つ広場へと向かって歩いていた。
良家といっても家柄だけで財もほとんどない実家だったから、狙われるなんて一度も考えたことがなかった。
のんびりと歩いていたのも狙われた理由なのだろうか。
忍び寄ってきた数人の男に背後から襲われ、頭から袋を被せられて攫われてしまった。
初めのうちは身代金目的としか思わす、いつか帰れると考えていた。
そんなにお金は払えないとしても、両親が必ず救い出してくれると。
でも次の日になっても僕の待遇は変わらなかった。
手と足を縄で縛られ、僅かな水を与えられるだけ。
世の中、そんなに甘くはないのだと自ら経験することになった。
僕が馬車に揺られて運ばれた先は、家族からも親戚からも聞いたことのない闇市。
何もかもが恐ろしい場所だった。
子供の売買だけでなく、大人の男女も何百人と集められていると、僕を攫った商人の一人が笑って教えてきたのだ。
「この人数じゃ、お前も安く買い叩かれるかもしれんが。まあいいさ、他にも十数人連れて来たしな」
「そうなんだよな、思った以上に子供の数が多い。薄利多売でいくしかないな」
人間である僕を商品と呼んで笑う男たちが怖かった。
いったい、この後、僕はどうなってしまうんだろうと。
気持ち悪い熱気に包まれた会場。身分を隠した大勢の大人たち。
数段高くなった舞台に引き摺り出された僕は、涙で前を見ることが出来なかった。
競り落とそうとする掛け合いなど聞こえる筈もなく、別の部屋へと連行されていく。
「ほら、さっさと歩けよ。ったく、何でこんな痩せた奴に大金払うかねぇ。・・・しかし、汚れがひどいな、お前。う~~、くそっ、支払いを拒否されたらマズイからなぁ。少しだけ身奇麗にしてやるか」
ブツブツと呟く商人の言葉で、家族の元へ戻れないことを知った。
「おい、ガキ。さっさと服を脱ぎやがれ。あ~~、くそったれっ。いい加減に認めろや、お前は買われたんだよ、好色な男にな」
動かないことに焦れた男は、ビリビリと破くように僕の服を剥ぎ取ると裸にしてしまった。
部屋の奥に設置された洗い場に僕を押し込むと、水とお湯を身体に何度も掛けていく。
汚れが落ちて綺麗になったかどうかを気にすることなく、男はどこからか大きな布を持って来ると、僕の体をソレで包んだ。
「まっ、こんなもんだな」
何故か満足気に呟いたのだった。
主人が何を思って闇市に来ていたのか、その時の僕が知る筈もなく。
ただひたすらに恐怖に震えていた。
もうすぐ、僕を買ったという人が来てしまう。
どんなに怖い人なのかと怯え続けていたのだ。
この闇市に一緒に連れて来られた同じくらいの少年たちは、次から次へと他人の手へ渡されていた。
銀貨や、時には金貨と交換されて。
「おっ、来た来た」
別の商品代として受け取ったお金を勘定していた男たちが嬉しそうな声を上げた。
その瞬間、僕の身体がビクビクと大きく震え始める。
(あぁ、もう、逃げられない)
最初は主人となる男が来たのだと思った。でも、違ったらしい。
自分は使用人であり、代理で来ただけだと言う。
両手に掲げていた袋三つ分の大金を商人たちに支払うと、男が僕の腰を掴んで引っ張って来た。
多分、逃げられないように捕まえているのだろう。
ニコニコ顔の商人も、僕を捕まえている使用人の男も怖かったけれど、あの袋の中身を考えると余計に怖い気がする。
もし仮に全部が銀貨だとして、幾ら払ったのか想像出来ない。
何をやって稼いでいるのだろう、と思った。
でもすぐに、何もしなくていい家柄なのかも、と思い付いた。
子供を買うような人間であっても、きっと世間には素晴らしい人物だと思われているに違いない。
布で覆っただけの格好で、僕は主人の乗っている馬車へと連行されてしまった。
中に居たのは、見るからに身分の高い男の人だった。
仕種一つさえ優雅で、ゆっくりと嚥下するワインは極上品なのだと無知な僕でも分かる。
使用人の男は、顎の傾きで命令内容を理解したのか、僕を中へ押し上げようとする。
このまま外に、それもこんな格好で立っているのは嫌だったから、押されるままに馬車の中の椅子へと座った。
「出しなさい」
御者の隣に使用人が座ったのを確認したのか、主人である男が命じた。
その口調に冷たさを感じた僕は、布で覆われた身体を更に竦ませてしまう。
家に帰りたい、そう言いたいのに。
もう言葉を発することさえ自由に出来ないのは分かっていた。
どこか機嫌の良さそうな、主人だという男をそっと窺っていると、僕の方へと男の腕が伸ばされて来た。
「ワインで手が汚れた。綺麗にしなさい」
意味が分からず呆然としていると、その腕が僕の首筋を掴み、躊躇することなく強い力で締め上げてきた。
「ぐぅううう~~っ、がぁあっ~~。がっ、あぁがぁああ~~~っ」
殺されると思った。もう、このまま死んでいくのだと。
何の感慨もなく僕を見ている男は、きっと虫を殺すような感覚でいるのだろう。
醒めた目をする、こんな男が僕の主人であり、そんな男によって自分は死ぬのだと思った。
「繰り返してやるのは今回だけだ。・・・綺麗にしなさい、お前の舌で」
遠のく意識の中でそんな言葉が聞こえた気がした。
次の瞬間、急に手が放され、ゴボっ、ゴホっと何度も何度も必死に呼吸を繰り返していく。
一滴の涙が頬を伝い落ちる感触に薄っすら目を開くと、隣から苛立ちの視線を感じて一気に背筋が冷たくなった。
(ひぃいいいいいい~~っ。まだっ、まだ死にたくないっ)
その思いだけが僕を支配して、早く行動しろと頭の中で誰かが囁いてくる。
目前に居るのは人間じゃない。悪魔だと知ってしまった今、拒否することは死への近道だと分かっていた。
だから、僕は唇を震わせながら口を開くと、再度、伸ばされて来た腕を両手に掲げ持ち、その長くて綺麗な指の一本一本を舌で舐め清めたのだった。
▲▲▲
久しぶりに闇市に来たことで攫われた頃のことを思い出していた僕は、隣に座った主人が小さく身動いた気配に慌てて背を伸ばした。
(いけないっ、また叱られてしまう)
少しでも気を抜けば、そして主人から意識を逸らせば手酷い罰が待っていた。
闇市の中で首に鎖を付けられたのも、行きの馬車の中で主人から目を離し、窓の外を見てしまったからなのだ。
やっと戻れるというのに、また帰り道で主人を怒らせてしまったら、そう考えるだけで怖かった。
屋敷の中にある調教道具で長時間に渡って嬲られた上、暫らく誰からも無視されてしまうに違いない。
「愚かな愛人は、見る価値もない」
以前、同じことをされる前に主人が告げた言葉は、今でも僕の心を傷付けている。
二度と言われたくないほどに。
そっと失礼にならない程度に様子を窺うと、その指が僅かに濡れていることに気付いた。
あの日のようにワインを飲んでいた主人は、馬車の揺れのせいで少しだけ指を汚してしまったらしい。
その部分を睨むようにして唇を軽く尖らせている。
「ご主人さま、私の舌で清めさせて下さい」
すでに幾度もやってきたことであり、今更、胸が痛むこともない。
いつもと変わらず長くて綺麗な指を口内へと含んだ。
指の付け根から爪の先まで、何度も舌で汚れを拭うように舐め取っていく。
無言が続いたことで機嫌が直ったと分かって嬉しくなる。
「ご主人さま。どうぞ、もう片方も私に清めさせて下さい」
両手で掲げ持った腕に視線を落とし、唾と唾液に濡れている指をもう一度舌で舐めようとした。
けれども、その指は僕の視界から消え去り、もう片方の指が眼前に現れた。
「至らぬことの多い愛人だが、少しは学習したようだな」
淡々としているけれど、口角が僅かに上がっている。
僕の願いに気を良くしてくれたらしい。
視線で促され、目前にある指へと素直に顔を近づけていった。
このままで屋敷へ辿り着きたかった。
たとえ、寝台の中で眠ることを許されないほどに身体を酷使されるのだとしても。
道具や薬を使って陵辱されるよりもマシだったから。
全ての指を舐め清めた後で、もし足の指も舐めろと言われたら。
うん、それでも僕はそれを実行してしまうに違いない。
主人の身体の中で、この舌を使って舐め清めていない場所はなかった。
屈辱的な場所、そう主人の尻の穴の中さえも、一度だけとはいえ舐めたことがある。
まだ反抗心が残っている時期のことで、激怒した主人が唾をまぶして全身を舐めるよう命じたのだ。
それから暫らくして、今度は自分のその場所を主人に舐められたことがあり、その時は羞恥と申し訳なさに泣いてしまった。
互いの身体で知らない場所はなく、主人と愛人の関係であっても、最初の頃のように敵愾心を持って接することは二度とないだろう。
屈服したつもりは更々ないけれど。
今でも逃げ出したい、手放して欲しいと願っているけれど。
恐ろしくて気難しい主人のことを、僕は少しだけ好きになっていた。
ぼんやりしている僕の前に大きな板が立て掛けてあった。
でも、それは二十人ほどの大柄な身体に阻まれ、チラチラとしか見ることが出来ない。
灰色のマントで覆われた男たちが板に群がり、先を競うようにして文字を書いているのだ。
手早く書いている者が多いのか、板を引っ掻くような音が部屋中に響いていた。
何が行われているのか分かっているのに、僕はその光景に何も感じなかった。
多分、色んなことがこの数か月に起こったからだろう。
今、僕が立っているのは、大きなテントを幾つも組み合わせて建てられた移動市場だ。
裏場や闇市、あるいは人買い市場と呼ばれている。
天井の布部分を開けているから空が見えるのが少し面白かった。
熱気とも違う淀んだ空気が肌に纏わりついてくる。
そんなテントの一角に、男たちが群がる一枚の大きな板は用意されていた。
丸で囲まれた枠は八個。
これから売り出される商品が八個あるということらしい。
健全な商売で各地を渡り歩くついでに攫って来た、良家の子息や令嬢たち。
荷馬車に乗せた大きな衣装箱や、油がたっぷり入る壷など、家族や従者の目を盗んで連れ出した少年らを隠す場所は幾らでもあった。
下町の子供では楽しくないと怒る客が多くて、わざわざ大きな街まで出掛けては家柄の良い家の子供を攫って高値で売っているようだ。
だからといって下町の子供に価値がないわけではなかった。
彼らは使い捨ての奴隷や下働きとして大量購入されるからだ。
もう一度、自分に言い聞かせよう。
そう、ここは、転々と場所を変えながら行われる闇市の中。
誰も子供らの未来など考える者はいない。
僕にもそんな余裕はないし、自分のことで精一杯の日々を送っている。
だから、あえて醒めた目で売る者と売られる者を眺めることしか出来ないのだ。
余計なお節介は無し、一言も喋ってはならない。
常に冷静に周りを観察し、ただ立っているだけに徹しろ、と。
八個の枠の上には、それぞれ番号がついていた。
最初に買いたい商品を檻の中から選び、その首に付けられた番号と同じ枠の中に名前を書くことが出来る。
そして支払える金額を横に書き入れていくのだ。
同じ商品を買いたい者がいれば、先に書かれた名前と金額を二重線で消して、自分の名前と金額を書き込んで権利を主張することになる。
当然だが、金額が高い者にしか商品は与えられないので、最後に書き込んだ者が勝者となった。
ぼんやり男たちの様子を見ていた僕は、後ろから急に鎖を引かれて悲鳴を上げた。
「うぐ~~っ。う、うぅ~、ふぐっ、……ふぐぅあぁあああ~~~っ。あっ、あがっ!」
主人の手によって巻かれている鎖がギリギリと首を締め上げていく。
段々と引かれる力が強くなって息が止まりそうだった。
殺される前に許しを請わなければ、と必死に背後を振り向いた。
言葉を出すことが出来ないから視線と腕を伸ばすことで懇願を繰り返した。
ボロボロと涙を溢したことで少しは機嫌が直ったのか、主人が鎖を引く力を緩めてくれた。
「ぐぁはっ、がっ、あがぁっ。がっ、があっはっ・・・はっ、はっ、はっ・・・」
痛みと恐怖にガクガクと震える足を叱咤し、何とか主人の傍へと歩いていく。
悠然と立っている主人は、僕が何度もよろける様を面白そうに見ていた。
▲▲▲
大きな鳥なのか、羽ばたく音が窓の外から聞こえている。
首の痛みはまだ消えていなかった。死に直面した恐怖も残っている。
でも、それを憂う優雅な時間など今の僕にある筈もない。
舗装されていない道を主人と乗り込んだ馬車が走っていた。
ガタガタと石を飛び越える音が何度も繰り返されて、その度に僕の身体は浮き上がりそうになる。
主人から事前に聞いていた今回の闇市は、下町の中の廃墟を使って開催した為に、予想より小規模になってしまったそうだ。
あれで小さいのなら、大きいのは街のど真ん中にでも作るのだろうか。
見つからないのか疑問だったが、何か口実を作って市を開催するのかも知れない。
そんなことを考えていると、隣に座る主人が唇を歪ませて腹立たしそうに呟いた。
「無駄足だったな」
社交場と違って人目を避ける必要がある為、主人も他の方々同様に灰色のマントで身体を覆って競りに参加していた。
普段から汚いモノが大嫌いな人だから、マントまで羽織って参加したのに何も買う物がなかったことを許せないようだ。
闇市では美術品なども売買されており、今日は絵画を購入する為に主人も参加していた。
滅多にないが、時々掘り出しモノが見つかるようで、今回は特別だという噂が出回っていたらしい。
そう、僕を買った日のように、地位の高い主人が稀に食指を動かされるのだ。
二年ほど前のこと。
学校の授業が終わった僕は、乗り合い馬車の待つ広場へと向かって歩いていた。
良家といっても家柄だけで財もほとんどない実家だったから、狙われるなんて一度も考えたことがなかった。
のんびりと歩いていたのも狙われた理由なのだろうか。
忍び寄ってきた数人の男に背後から襲われ、頭から袋を被せられて攫われてしまった。
初めのうちは身代金目的としか思わす、いつか帰れると考えていた。
そんなにお金は払えないとしても、両親が必ず救い出してくれると。
でも次の日になっても僕の待遇は変わらなかった。
手と足を縄で縛られ、僅かな水を与えられるだけ。
世の中、そんなに甘くはないのだと自ら経験することになった。
僕が馬車に揺られて運ばれた先は、家族からも親戚からも聞いたことのない闇市。
何もかもが恐ろしい場所だった。
子供の売買だけでなく、大人の男女も何百人と集められていると、僕を攫った商人の一人が笑って教えてきたのだ。
「この人数じゃ、お前も安く買い叩かれるかもしれんが。まあいいさ、他にも十数人連れて来たしな」
「そうなんだよな、思った以上に子供の数が多い。薄利多売でいくしかないな」
人間である僕を商品と呼んで笑う男たちが怖かった。
いったい、この後、僕はどうなってしまうんだろうと。
気持ち悪い熱気に包まれた会場。身分を隠した大勢の大人たち。
数段高くなった舞台に引き摺り出された僕は、涙で前を見ることが出来なかった。
競り落とそうとする掛け合いなど聞こえる筈もなく、別の部屋へと連行されていく。
「ほら、さっさと歩けよ。ったく、何でこんな痩せた奴に大金払うかねぇ。・・・しかし、汚れがひどいな、お前。う~~、くそっ、支払いを拒否されたらマズイからなぁ。少しだけ身奇麗にしてやるか」
ブツブツと呟く商人の言葉で、家族の元へ戻れないことを知った。
「おい、ガキ。さっさと服を脱ぎやがれ。あ~~、くそったれっ。いい加減に認めろや、お前は買われたんだよ、好色な男にな」
動かないことに焦れた男は、ビリビリと破くように僕の服を剥ぎ取ると裸にしてしまった。
部屋の奥に設置された洗い場に僕を押し込むと、水とお湯を身体に何度も掛けていく。
汚れが落ちて綺麗になったかどうかを気にすることなく、男はどこからか大きな布を持って来ると、僕の体をソレで包んだ。
「まっ、こんなもんだな」
何故か満足気に呟いたのだった。
主人が何を思って闇市に来ていたのか、その時の僕が知る筈もなく。
ただひたすらに恐怖に震えていた。
もうすぐ、僕を買ったという人が来てしまう。
どんなに怖い人なのかと怯え続けていたのだ。
この闇市に一緒に連れて来られた同じくらいの少年たちは、次から次へと他人の手へ渡されていた。
銀貨や、時には金貨と交換されて。
「おっ、来た来た」
別の商品代として受け取ったお金を勘定していた男たちが嬉しそうな声を上げた。
その瞬間、僕の身体がビクビクと大きく震え始める。
(あぁ、もう、逃げられない)
最初は主人となる男が来たのだと思った。でも、違ったらしい。
自分は使用人であり、代理で来ただけだと言う。
両手に掲げていた袋三つ分の大金を商人たちに支払うと、男が僕の腰を掴んで引っ張って来た。
多分、逃げられないように捕まえているのだろう。
ニコニコ顔の商人も、僕を捕まえている使用人の男も怖かったけれど、あの袋の中身を考えると余計に怖い気がする。
もし仮に全部が銀貨だとして、幾ら払ったのか想像出来ない。
何をやって稼いでいるのだろう、と思った。
でもすぐに、何もしなくていい家柄なのかも、と思い付いた。
子供を買うような人間であっても、きっと世間には素晴らしい人物だと思われているに違いない。
布で覆っただけの格好で、僕は主人の乗っている馬車へと連行されてしまった。
中に居たのは、見るからに身分の高い男の人だった。
仕種一つさえ優雅で、ゆっくりと嚥下するワインは極上品なのだと無知な僕でも分かる。
使用人の男は、顎の傾きで命令内容を理解したのか、僕を中へ押し上げようとする。
このまま外に、それもこんな格好で立っているのは嫌だったから、押されるままに馬車の中の椅子へと座った。
「出しなさい」
御者の隣に使用人が座ったのを確認したのか、主人である男が命じた。
その口調に冷たさを感じた僕は、布で覆われた身体を更に竦ませてしまう。
家に帰りたい、そう言いたいのに。
もう言葉を発することさえ自由に出来ないのは分かっていた。
どこか機嫌の良さそうな、主人だという男をそっと窺っていると、僕の方へと男の腕が伸ばされて来た。
「ワインで手が汚れた。綺麗にしなさい」
意味が分からず呆然としていると、その腕が僕の首筋を掴み、躊躇することなく強い力で締め上げてきた。
「ぐぅううう~~っ、がぁあっ~~。がっ、あぁがぁああ~~~っ」
殺されると思った。もう、このまま死んでいくのだと。
何の感慨もなく僕を見ている男は、きっと虫を殺すような感覚でいるのだろう。
醒めた目をする、こんな男が僕の主人であり、そんな男によって自分は死ぬのだと思った。
「繰り返してやるのは今回だけだ。・・・綺麗にしなさい、お前の舌で」
遠のく意識の中でそんな言葉が聞こえた気がした。
次の瞬間、急に手が放され、ゴボっ、ゴホっと何度も何度も必死に呼吸を繰り返していく。
一滴の涙が頬を伝い落ちる感触に薄っすら目を開くと、隣から苛立ちの視線を感じて一気に背筋が冷たくなった。
(ひぃいいいいいい~~っ。まだっ、まだ死にたくないっ)
その思いだけが僕を支配して、早く行動しろと頭の中で誰かが囁いてくる。
目前に居るのは人間じゃない。悪魔だと知ってしまった今、拒否することは死への近道だと分かっていた。
だから、僕は唇を震わせながら口を開くと、再度、伸ばされて来た腕を両手に掲げ持ち、その長くて綺麗な指の一本一本を舌で舐め清めたのだった。
▲▲▲
久しぶりに闇市に来たことで攫われた頃のことを思い出していた僕は、隣に座った主人が小さく身動いた気配に慌てて背を伸ばした。
(いけないっ、また叱られてしまう)
少しでも気を抜けば、そして主人から意識を逸らせば手酷い罰が待っていた。
闇市の中で首に鎖を付けられたのも、行きの馬車の中で主人から目を離し、窓の外を見てしまったからなのだ。
やっと戻れるというのに、また帰り道で主人を怒らせてしまったら、そう考えるだけで怖かった。
屋敷の中にある調教道具で長時間に渡って嬲られた上、暫らく誰からも無視されてしまうに違いない。
「愚かな愛人は、見る価値もない」
以前、同じことをされる前に主人が告げた言葉は、今でも僕の心を傷付けている。
二度と言われたくないほどに。
そっと失礼にならない程度に様子を窺うと、その指が僅かに濡れていることに気付いた。
あの日のようにワインを飲んでいた主人は、馬車の揺れのせいで少しだけ指を汚してしまったらしい。
その部分を睨むようにして唇を軽く尖らせている。
「ご主人さま、私の舌で清めさせて下さい」
すでに幾度もやってきたことであり、今更、胸が痛むこともない。
いつもと変わらず長くて綺麗な指を口内へと含んだ。
指の付け根から爪の先まで、何度も舌で汚れを拭うように舐め取っていく。
無言が続いたことで機嫌が直ったと分かって嬉しくなる。
「ご主人さま。どうぞ、もう片方も私に清めさせて下さい」
両手で掲げ持った腕に視線を落とし、唾と唾液に濡れている指をもう一度舌で舐めようとした。
けれども、その指は僕の視界から消え去り、もう片方の指が眼前に現れた。
「至らぬことの多い愛人だが、少しは学習したようだな」
淡々としているけれど、口角が僅かに上がっている。
僕の願いに気を良くしてくれたらしい。
視線で促され、目前にある指へと素直に顔を近づけていった。
このままで屋敷へ辿り着きたかった。
たとえ、寝台の中で眠ることを許されないほどに身体を酷使されるのだとしても。
道具や薬を使って陵辱されるよりもマシだったから。
全ての指を舐め清めた後で、もし足の指も舐めろと言われたら。
うん、それでも僕はそれを実行してしまうに違いない。
主人の身体の中で、この舌を使って舐め清めていない場所はなかった。
屈辱的な場所、そう主人の尻の穴の中さえも、一度だけとはいえ舐めたことがある。
まだ反抗心が残っている時期のことで、激怒した主人が唾をまぶして全身を舐めるよう命じたのだ。
それから暫らくして、今度は自分のその場所を主人に舐められたことがあり、その時は羞恥と申し訳なさに泣いてしまった。
互いの身体で知らない場所はなく、主人と愛人の関係であっても、最初の頃のように敵愾心を持って接することは二度とないだろう。
屈服したつもりは更々ないけれど。
今でも逃げ出したい、手放して欲しいと願っているけれど。
恐ろしくて気難しい主人のことを、僕は少しだけ好きになっていた。
スポンサードリンク